カウンターに腰掛けるロイ=マスタングの掌のなかで、小さな紙がぐしゃりと悲鳴をあげ、彼の形のよい唇が小さな小さな声で「愚か者め」と呟いた。
おやおや、と細い眉を動かしたのは、そんなマスタングの様子をカウンターの内側から見ていた、マダム・クリスマスだった。その豊満な胸から煙草の煙を吐き出した彼女は、くっくっと喉を鳴らして、マスタングに言った。
「落ち着きなさいな」
だいのおとながみっともない、とマダムはマスタングを窘め、彼の両隣に陣取っていた従業員の女たちを退かせる。いつも穏やかな風を装うマスタングの、いかにも軍人らしい厳しい表情を目の当たりしてしまった彼女たちは、そそくさと逃げるようにボックス席のほうに消えていってしまった。
女性を怖がらせるとは、いやはや、男の風上にもおけない。軍人のくせに、不用意に一般人を怖がらせるのも、これまたいただけない。
「色男な大佐の名がなくねぇ」
ゴホン、と咳払いをしてその場を取り繕おうとするマスタングに、マダムはにぃと笑ってみせた。真っ赤な紅の引かれた口がまるで妖怪のそれのようにマスタングには見えて、彼は不覚にも頬を引き攣らせた。
いけない。今の自分は、すっかり動揺している。落ち着かなければ。
そんなマスタングの胸中を、おそらくは見抜いているであろうマダムは、「だから、お前はまだまだ“ロイ坊”なんだよ」と、鼻で笑ってみせた。亀の甲は年の功――どうしたって、マスタングはこの婦人には勝てない。
「……で、噂のわんぱく坊主たちがどうかしたのかい?」
マスタングの手の中で無残な姿と成り果てた紙を、つい今しがたマスタングのもとに持ってよこした男の顔を思い出しながら、マダムは尋ねた。あの男は、グラマン将軍の息のかかったホテルの従業員のうちのひとりであったはずだ。
「兄のほうがホテルを飛び出していったとのことですよ。玩具は目一杯あげておいたはずなのに……」
まったく、あれほど外出は控えるようにと言った傍から、どうしてあのこどもは……。
「読みが外れたね、ロイ坊。こどもはそういうものさ。いつだっておとなの読みのさらに上をいく。突拍子がなくて、滅茶苦茶だ。そして、おとなは一度こどもの面倒を見ると決めたからには、最後まで面倒を見てやんなきゃいけない。そういうものだろう?」
「……」
「もちろん聞き分けのないこどもには、それ相応のことをしてやるのも、おとなの仕事だけどね」
――つまり、きつくお灸を据えてやってしまえ、ということだ。
さて、どうやってお灸を据えてやろうか、とマスタングは考える。考えているうちに、苛々が募ってきた。
「――嗚呼、私も忙しいというのに、どうしてアレは余計な仕事を増やしてくれるんだ……!!」
言いながら席を立ったマスタングに、マダムは不思議そうに首を傾げてみせた。
「おや、ロイ坊、もう行くのかい? 今日はエリザベスちゃんと待ち合わせだと言ってたじゃないか」
「飛び出していったこどもを探しにゆくのも、おとなの仕事でしょう?」
「見張りはついてるんだろう?」
「ええ、一応ね」
小さな報告書には、ホテルの従業員のうちのひとりがエドワードを張っていると記されていた。
「しかし、相手はあの鉄砲玉ですからね。これがまた、ちょこまかちょこまかとよぉく走るんですよ。それにどうせお灸を据えてやるなら、早めが一番効果的というものです」
要はマスタングはエドワードのことが心配なんだな、とマダムはそう解釈することにした。口では散々な文句を言っておきながら、すっかり保護者の性分は身に染み付いているようだった。
「そうそう。エリザベスにこれを渡しておいてください」
差し出された紙切れを受け取ったマダムは、それを大きく開いたドレスの胸元に入れた。ここならば、何人たりとも寄せ付けない。
「それから……お願いばかりで申し訳ないが、裏口を使わせてもらってもよろしいですか? さっきから怖い顔が表から睨んでいて煩わしいったらないんです」
「表の車はどうすんだい」
「まあ、てきとうに置いておいてください。あ、でもくれぐれも乗り回さないようにお願いします。いつ物騒なものが仕掛けられるとも限らないので」
そして、マスタングはカウンターの内側にするりと身体を入れ、そのまま店の裏口から外へと出て行った。
中央司令部の検問所は、エドワードのなかにある記憶とはがらりと違った雰囲気だった。エドワードが前にここを訪れたのは、3ヶ月以上前のことだけれど、たった3ヶ月で、こうも雰囲気は変わってしまうものだろうか。
以前見たそこは、もっと厳かな雰囲気が漂っていた。そして一種の余裕さえも内包した、そんな建物だった。あれは君臨する者たちの持つ絶対的な余裕だった。だのに、今は、ただ重苦しいばかりで、ここには軍施設たる威厳がまったく感じられない。
目と鼻の先にあるそこの検問所を通り、塀のなかに入るべきか、否か。エドワードは思案する。憲兵にポケットのなかの銀時計を見せてしまえば、門は一発で通してもらえるだろう。それだけの力が、この銀時計を持つ国家錬金術師にはあるのだ。
けれど――。
「なーにをやっているのかね、鋼の」
背後からぬっと沸いて出た男に、げ、とエドワードは顔を引き攣らせた。
「た、大佐っ」
しどろもどろなエドワードをマスタングは冷ややかに一瞥すると、エドワードが言い訳をする間も与えずに、問答無用で路地裏に引っ張り込んだ。
「……まったく。君の無鉄砲さにはほとほと呆れるが、危機防衛本能は野生動物並みだね。――正解だ。今、あのなかには入らないほうがいい」
「あそこが危ないっていうのかよ」
「だから司令部には近づくな、とあれほど言っただろう。行方知らずになった国家錬金術師のほとんどが、あの建物のなかで消えてるのだよ」
「んな……」
(そういうことを早く言え!)
「言ったら、君のことだ。自分が囮になって捜査開始だ!とか言い出すに決まっているだろう」
ぐぐっと言葉に詰まったエドワードのほうに、マスタングが腕を伸ばす。
「いやはや。無事でよかった」
ぽんと頭の上に掌を置かれる。
そこではじめて、エドワードはマスタングの肩が激しく上下していることに気づいた。額には大粒の汗が浮かんでいる。今は、秋――夕刻ともなれば肌寒い、そんな季節である。だのに、マスタングは汗をかいていた。
(走ってきたのか……)
エドワードは眉と口を八の字にして、立ち竦んでいた。なんというか、頭ごなしに怒られるよりも、こういうほうがよっぽど居心地が悪い。困ったように苦笑いするマスタングと視線が合えば、その居心地の悪い感覚は倍増だった。
「本当に無事でよかったよ、鋼の」
そうしみじみ言われても、エドワードは困る。マスタングが自分の無事を知って安堵の溜息をこぼす程の危険を、自分が冒したという感覚が、エドワードにはないのだ。何せ、断片的な情報だけで、未だに状況が掴みきれないこの状況下では、危機感も抱けやしない。
「あのな、大佐。ちゃんと説明してくれよ」
ただの好奇心ではない。それでもマスタングは生返事しか返さない。
「大佐……俺も真面目に怒るぞ」
「君の金髪は目だっていけないねえ」
……いったい何の話だよ。
憤然とするエドワードを他所に、マスタングの手がエドワードの耳元を掠めて、その裏の首筋に届いた。ふわりと黒いフードがエドワードのハニーブロンドを覆う。マスタングがコートのフードを被せてくれたのだ、とエドワードが状況を把握するのに、約三秒ほどの時間を要した。頭の回転が速いと自他共に認めるエドワードにおいては、ひじょうに遅い反応だ。
「きちんと隠しておきなさい」
「は?」
次の瞬間に、彼女の身体は地面に転がり込んでいた。マスタングに突き飛ばされたのだ。
「イッ!?」
なにすんだテメエ! と、エドワードが叫ぶより前に、鋭い銃声がエドワードの鼓膜を劈いた。エドワードの足元で細い噴煙がのぼる。銃弾が打ち込まれたのだ。
いったい、誰が? 何処から?
「立ちなさい、鋼の!」
立てって、あんたが突き飛ばしたんだろうよ、とツッコんでいる場合ではないことぐらいは、エドワードにもわかった。持ち前の反射神経の良さで素早く身体を起こす。そして銃弾が飛んできた方角を見た。そこには――。
(え?)
目を見開くエドワードに、マスタングの一括が飛ぶ。呆けるな、集中しろ、という声が聞こえた。
再び銃声が響いた。
(撃ってきた!?)
エドワードの視線の先にいるのは、ワンピースを着た、民間人と思しき少女。その少女がこちらに向かって発砲してきたのだ。どういうことだ。
混乱するエドワードを背後にかばうと、マスタングはその少女に向かって躊躇する素振りすら見せずに引き金を引いた。
「た、大佐っ。な、なにやって……!」
マスタングはそれには答えずに、もう一発、銃弾を打ち込んだ。ぎゃああああという鼓膜を切り裂くような悲鳴が響いた。
「目を瞑るな。走るぞ」
少女の悲鳴に思わず耳を塞ぎ、目を瞑ったエドワードに、けれどマスタングは頓着しない。場違いなほどに静かで落ち着いた声と強引な腕で、エドワードを無理やり走らせた。
耳の奥にこびり付いて離れない悲鳴。兵隊の声じゃない。ふつうの、ごくごくふつうの女の子の声だった。
腕を引かれながら、頭だけをめぐらせる。血が、地面に広がっている。そのなかで、ワンピースの少女が横たわっていた。
マスタングに掴まれている腕が痛い。彼の背中が遠い。走る足が縺れる。
吐き気がした。
路地裏のさらに裏の裏を突き進んでゆく。奥に行けば行くほど、道は狭く暗くなってゆくのだが、エドワードの前をゆくおとなはその大きな身体を器用に操って狭い道を駆け抜けてゆく。エドワードはその背中を追うので精一杯だった。夕刻ももう終わる。足元は暗く、整備の行き届いていない細い道は走るには向いていなかった。
もはや、ここがセントラルのどのあたりに位置するのかも、エドワードにはわからない。迷うことなく道を突き進むマスタングの頭には、この複雑な迷路の地図が正確にインプットされているらしかった。
あれから――はじめにワンピースの少女に銃撃されてから――、何度か銃弾がエドワードたちを襲った。紙一重で銃弾を避け、マスタングが銃で応戦する。彼の正確な腕は寸分の狂いもなく標的を打ち抜いていった。そして、そのたびにエドワードは断末魔の叫び声を聞くはめになった。マスタングが撃った相手は皆、やはりあの少女のようなごくごくふつうの姿をした人間だった。
何故、一般人が。何故、エドワードたちを。どうして。どうして、大佐は彼らをふつうに撃っている?
気持ちが悪い。胃がむかむかとする。気持ちが、悪い。
「鋼の?」
マスタングは訝しげに振り返った。後ろからついてきているはずの部下が、いない。足早に来た道を少し戻ると、そこで小さな身体が蹲っていた。
「何をしている。立ちなさい」
蹲る身体の前に立ち、マスタングは強めの口調で言った。
「……気持ち悪い」
エドワードは膝と膝の間に顔を埋めたまま、動かない。くぐもった声は、まるで泣いているかのようにも聞こえた。
「休憩は後だ。兎に角立ちなさい。ここは危ない」
「……たいさ……なんで……」
「……」
「なんで、あんな……あんな……女の子が……」
足元の小さな背中が震えていた。それでも、マスタングはその背中を擦ってやろうとはしなかった。
「鋼の、立ちなさい」
「なあ、なんでっ!」
エドワードが顔をあげ、息を呑む。見上げたマスタングの漆黒の瞳が、あまりにも静かだったからだ。こんな状況でもあってしても、冷静さを欠かない化け物染みたその神経を、エドワードははじめて怖いと思った。
「た……いさ?」
マスタングの視線がエドワードから反れる。彼の舌打ちをエドワードが耳にした、その次の瞬間には、彼女はマスタングの腕に無理やり引き上げられていた。どん、と背中に衝撃が走る。あまりの痛みに眦に生理的な涙が浮かんだ。文句を言う間もなく、エドワードの口元をおとなの男の大きな掌が覆った。
どくり、と鳴ったのは、エドワードの心臓だったのか。それとも眼前に迫ったマスタングの胸だったのか。
そう遠くない何処かから、誰かの話し声がする。高い女の声も混ざっていた。こっちにはいない。あっちにもいない。何処に消えた。そんな会話が、エドワードの耳に微かに届いた。
追っ手だ。エドワードたちを追っている何者かが、すぐそこをうろついているのだ。
身体を固くするエドワードを、マスタングの身体がさらに壁に押し付ける。口を覆う手は既に外され、そのかわりエドワードの額にマスタングの胸が当たった。とくりとくりと微かな心音が伝わってくる。少し早いリズムを刻むそれは、彼もまた緊張していることを、エドワードに教えてくれた。
身体と身体の隙間からエドワードは外を覗く。エドワードの視線と同じ高さに銃の握られたマスタングの手があり、さらにその銃口の先を、その金色の目で追った。外側の路地を誰かが、歩いている。小さな、細い人影だ。
あ、とエドワードの目が見開かれた。
“彼女”はこちらには気づいてはいない。おそらくはエドワードたちがちょうど影になるところに隠れているからだろう。それでも、ちょっとした音を立てれば容易く見つかってしまうような、そんな距離だ。
「化け物め……」
マスタングの呻くような小さな声が、エドワードの耳に届いた。どきりとする。
化け物? どういうことだ?
混乱するエドワードを他所に、喧騒が遠くなってゆく。話し声も、足音も、どんどん小さくなり、やがて聞こえなくなった。
エドワードを壁に押し付けていたマスタングの身体から力が抜けるのを感じると同時に、エドワードも息をついた。そしてマスタングが何か言い出すまえに、ガンっと、今度はエドワードがマスタングを反対側の壁に押し付けた。イタタ、と呻くマスタングを無視して、胸倉を掴み、今度は引き寄せ、エドワードは叫んだ。
「いったいどうなってやがるっ!」
上司の胸倉を掴むなどという暴挙に出たエドワードを咎めるでもなく、マスタングの顔はひどく冷静だった。
「どういうことだっ」
「声が大きいよ、鋼の」
と、マスタングは胸元にあるエドワードの指の上に、自らの指を添えた。細い指を一本一本解いてゆこうとするマスタングの骨ばった指の、あまりの緩慢な動きに焦れたのか、エドワードは結局自ら上司から手を離した。
「どうなってんだよ。さっきのあの子は……大佐が撃ったはずの子だ……撃たれて倒れてた……なのに……」
血溜まりのなかで倒れたあの子を確かに見た。だのに、今見たあの子は、ふつうに歩いていた。
助かってよかったな、なんてお人よしのような優しい気持ちにはなれない。ただ、気持ちが悪かった。あれは――化け物だ。
「なあ、大佐、どうなっ……」
「……いやはや、発育不全だねえ、鋼の」
エドワードの言葉を遮るマスタングの声には、並々ならぬ落胆の響きがあった。
「は? 何が?」
言葉を遮られた不快感と、マスタングの声の響きの意味をはかりかねたエドワードは訝しげに眉を寄せる。
「密着しても、ちっとも気持ちよくないね」
「だから何が?」
「60のAというところか」
唐突に降ってきた数字とアルファベッドに、エドワードは金色の目を目一杯に見開いたまま、固まった。声も出なかった。
「おや、わからないのかい? 胸の話に決まってるじゃないか」
容赦ないトドメの一撃だった。
「な、な……! な、なんで、あ、あんたが……!!」
「どうして、君が女だと、私が知っているかと?」
薄暗い路地裏でもはっきりと見て取れるほどに、頬を高揚させるエドワードが、マスタングにはひどくおかしかった。
「私を誰だと思っている」
呆然と立ちすくむエドワードに、マスタングは悠然とも、不遜ともとれる笑顔を向けた。
動揺のせいだろう。マスタングが見下ろした金色の瞳の奥がゆらゆらと不安定な色を醸し出していた。簡単に我を忘れてしまえるこどもがおかしくて、可愛くて、哀れだった。
「さて、鋼の」 マスタングは、先ほど自分たちが入ってきた方とは逆の方向を指差す。 「君は、とりあえず、そこの道を右に行きなさい。赤いポールが建っている二階建ての建物を見つけたら、今度はそのなかの階段を上って、目指すは、突き当たりの部屋だ。しばらくそこで待っていなさい」
「た、大佐は?」
「私はもう少し様子を見てくる。大丈夫だ、部屋はすぐにわかるさ。後ほど、部下をそちらに行かせるから、君はその者と一緒にまたホテルに戻りなさい。いいね?」
じゃあ気をつけて、とエドワードの肩を強引に押す手を、彼女はぱしりとはらった。
「ちょっと待て!!」
見上げたマスタングの顔がひじょうに迷惑そうな顔をしている。それでも、エドワードは彼にしつこく食い下がった。マスタングのシャツを掴んで、逃げられないようにした。
「話が……話はまだ終わってないっ」
「ああ、君の本当の性別を知っていたことなら、謝ろう。黙ってて悪かっ……」
「ちっげーよ!!」
マスタングが小さく舌打ちするのが聞こえた。
「二度も三度も逃げようったって、そうはいかねぇぞ……このぬるぬる鰻野郎!」
一度目は、電話を勝手に切られた。二度目は、貴重な文献という餌を噛まされて、うっかりそれに釣られてしまった。三度目は、予想外な持ち札を見せ付けてエドワードの思考能力を奪おうとしてきた。
睨み合うように見詰め合って、先にねを上げたのはマスタングのほうだった。
マスタングは前髪をかきあげながら、嘆息をこぼした。
マスタングのシャツを握ったままの、エドワードの手を見て、嘆息はさらに深くなった。
こどものためを思って何度逃げたって、それでも結局、このこどもは追ってくる。むしろこちらが逃げれば逃げるほど、こどもは必死になる。エドワード=エルリックはそういう、ひじょうに性質の悪いこどもなのだ。
可愛いこども。無鉄砲で、愚かなこども。その愚かさが、ときにその首に指を絡めたくなるほど、憎らしく、そして、愛しい。――この矛盾に満ちた感情に、マスタングはもう長いこと名前をつけることが出来ずにいる。
「……とりあえず部屋に入ろう。話はそれからだ」
頷いたこどもの腕をひいて、マスタングは路地裏のさらに奥へと進んだ。
>>