セントラルの街にはすっかり夜の帳がひかれ、街の人々は街頭の光を頼りに活動する時刻だった。
 エドワードがマスタングに連れてこられた空間は、カーテンがきっちりと閉め切られ、天井の白熱灯だけが頼りの心もとない場所だった。暗く、決して広くもないその部屋に用意されているものは、寝心地の悪そうな簡易ベッドがひとつに、パイプ椅子がひとつ――まともな生活臭のするものは、それくらいだ。あとは、通信用と思しき大きな機械が三つも四つも部屋のほとんどのスペースを陣取り、残ったスペースには所狭しとライフルやら手榴弾やら、やたらと物騒なものが並べられていた。
 マスタング曰く、この手の部屋はこのセントラルのあちこちに点在しているのだという。それらは軍が所持するものではなく、あくまでロイ=マスタング、その人個人の持ち物であるとのことだった。ついぞエドワードには無縁のままであったが、実はイーストシティにも同じようなものは存在していたらしい。「ちっとも知らなかった」と呆然と呟くエドワードを、マスタングは「こどもには関係がないものだろう」の一言で、いとも容易く片付けてくれた。
「こどもこどもってよー」
 批難たっぷりに睨みつけてくるエドワードを、マスタングは逆に睨み返して言った。
「こどもだろう。人の事情も汲めずに、突っ走る、体当たりする、暴れまわる。そして仕舞いには、泣くは、喚くは。これをどうしてこどもではないと君は言うんだね」
「俺、そんなにひどいかよ」
「ひどいね」
 そこまではっきりと言われてしまっては、流石のエドワードも憎まれ口を叩く気力を削がれてしまった。
 肩を落とし、ベッドの上で胡坐をかくエドワードの正面にして、マスタングは椅子に腰掛ける。奇妙な沈黙を経て、やがてマスタングは重い口を開いた。
 マスタングはこのこの数ヶ月の出来事を、実に簡潔にわかりやすく語ってくれた。錬金術師たちの失踪事件、キング=ブラッドレイの失踪、軍上層部の混乱具合――エドワードが持たなかった情報カードが次々と、マスタングによっていちまい、またいちまいと表に返されてゆく。
「……時間がない」
 マスタングの呟きにも似た小さな声に、エドワードははっと顔をあげた。
「それは、わかるね、鋼の」
 エドワードはきゅっと口を結び、マスタングの漆黒の瞳を真正面から受け止めた。時間がない――よもや、マスタングの口からもそんな言葉を聞くことになろうとは、エドワードは夢にも思わなかった。時間がないのは、エドワードだけではなかった。
 大総統キング=ブラッドレイが消えたと聞かされたときは、エドワードはもう言葉も出なかった。あの神がかった強さを誇るキング=ブラッドレイが何者かに襲われたとは考えられない。おそらくは、彼は自ら姿を消したのだ。しかも、大総統がホムンクルスだと知る軍上層部の連中にすら何も言わずに……。
 キング=ブラッドレイが消えたと同時期に、他のホムンクルスたちの姿も見なくなったという。長いときをこの国の影の支配者であったホムンクルスたちが、今になって自ら姿を消したということは、つまり、彼らがこの国を見捨てたということなのだ。或いは、端からこの国は、ホムンクルスたちにとって捨て駒にしかすぎなかったということだ。何のための捨て駒であったのかすら、マスタングにも、エドワードにも知る由はないが。
「街を見て君も気づいただろう? 必死に体裁を保とうとしているが、軍は混乱の極みにある。事情を知らない下っ端の間にも、じわりじわりと不安が広がっている。こんな内情が他国に知れ渡った日には、国境線の戦いもさらに悪化するだろうね。このまま大総統の不在を隠し通せるわけがない。実際このひと月のこと、軍はまあよくやったほうだとは思うよ。ホムンクルスたちに魂を売った上層部だが、国まで滅ぼされてしまっては元も子もないからね、それはもう必死だ。とはいえ、彼らは当てには決してなりえない。彼らは、今尚、大総統の不在を受け入れられずにいられる。大総統がいつか戻ってきてくれるのではなかろうかと、バカみたいに信じているのさ」
「ご主人様をなくした狗は弱っちぃな」
 エドワードの皮肉に、マスタングは肩をすくませてみせた。
「大総統は戻ってはこない。ホムンクルスにとって、我々人間などその程度の存在だ。もちろんこの国の未来だって知ったことではないだろう。どのみち、このままおとなしくしていたところで、この国は地図上から名前を消すだけだ。――わかるかね、鋼の。この国は新しい指導者が必要だ。しかも早急に」
「あんたがそうなるって?」
 いや、とマスタングは言った。
「私にはまだ早いだろう」
「能力的に?」
「年齢的に」
 マスタングはさらりと言った。謙虚を装っているわけではない。彼は純粋にそう判断しているのだ。ロイ=マスタングという男はその鼻持ちならない態度とは裏腹に、自分というものを過信していないし、逆に過小評価もしていない。そういう男だ。
 マスタングはどこからともなく引っ張り出してきた救急箱を開けて、エドワードの左手をとった。抵抗するエドワードを一喝して、マスタングは彼女の掌の傷に、消毒液をしこたま塗りこむ。労りだとか、容赦というものを感じさせないマスタングの治療は、もはや拷問の域だった。
 ワザとだ。ぜってーにワザとだ。エドワードは思った。マスタングが故意にやっているとしか、エドワードには思えない。
 痛みのあまりぎゃーぎゃー喚くエドワードに、マスタングは「堪え性のない」と肩をすくめてみせた。
「擦り傷に少し消毒液を塗ったくらいで騒ぐのはよしなさい」
「こうゆーちっこい傷のほうが、神経に触るんだよっ。だいたいなーあんたが人をいきなり突き飛ばしたりするからいけねぇんだろ」
「仮にも武道派の国家錬金術師を名乗るのなら、咄嗟の判断で受身ぐらいとってみたまえよ」
「無茶言うな」
「そもそも、私があのとき君を突き飛ばしていなかったら、君はこんな傷では済まなかったよ」
 マスタングの地を這うような声に触発されて、エドワードは自分に向けられた銃口を思い起こした。ぞわりと全身の毛穴からいやな汗が吹き出てくるような気がした。
「たとえ銃弾が急所に当たらなくとも、銃創は容易に人を死に至らしめる。死せずとも、出血多量のショックによる発熱と嘔吐に苦しむことは必至だ」
「……怖いことをそうさらりと言うな」
「怖いと思うのなら、君はさっさとセントラルから去りなさい。近いうちにこの街は――この国は大混乱に陥る。逃げるなら今のうちだよ、鋼の。……幸い、アームストロング少将は君を随分と気に入っているらしいじゃないか。美しいと評判の彼女にお茶に誘われるだなんて光栄の至りだ。お茶するついでに、彼女に匿ってもらえばいい」
「よ、読んだのか!」
 人の電報を勝手に!
「部下のもとに届いたものを上司がチェックして何が悪い」
 目玉をひん剥かせているエドワードに、マスタングは悪びれた様子もなくしれっと答えた。
「プライバシーの侵害だ!」
 だいたい昼間、車のなかでマスタングは言ってなかったか。――私は人様宛の手紙を勝手に見るような人間ではないのだけどね、と堂々と言ってのけていなかったか。
 この大嘘吐き野郎め!と思えども、既に罵倒する気力も尽きたエドワードは、盛大な溜息をつくに留まった。
 エドワードを治療するマスタングの手際のよさといったら、もう驚くほどだ。くるくるとマスタングによって左手に仰々しく巻かれてゆく包帯を、エドワードはじっと見つめる。この包帯と似たようなものが、エドワードの胸部にも巻かれている。傷を治すためではない。ささやかな女の象徴を隠すためのものだ。
「……だからか」
「何がだね」
「あの電報を読んだから、わかったのか」
 “何が”わかったのか、エドワードは直接言葉にはしなかったが、マスタングにはエドワードの言わんとすることが正確に伝わったようだ。彼は口端をあげて、違うな、と答えた。
「違うのかよ」
「まあ、驚きはしたよ。まさか“彼女まで”君の本当の性別を知っているとは思いもしなかったのでね」
 そっちで驚いたのか、とエドワードは嘆息をもらした。
「バレちまったんだよ。んで、女なら女といって堂々と胸をはるのがよかろう!ってげん骨で頭を殴られた」
「はは。なるほど」
 彼女らしい、と言ってマスタングは笑う。
 包帯を最後にテープで固定して、治療は終わった。使い終えた消毒液やはさみを救急箱のなかに閉まって、マスタングは箱の蓋を閉じる。
 エドワードはしばらく無言で視線をふらふらと彷徨わせ、ややあって弱弱しい声音で訊ねた。
「……いつから知ってたんだ」
 さあねえ、とマスタングは肩を竦めてみせた。随分と昔のことだから忘れてしまった、とも告白した。
 そうか、とエドワードは肩を落とす。
「なぁんで、バレたかなぁ。少将にも、あんたにも」
「あのねえ、鋼の。十六にもなって髭の一本も生えてこない男がいると思うのかね。背が伸びないのは仕方ないにしても、髭はおかしい。ほかに、脛毛、咽仏、声変わり、もろもろ、君には男特有の外見的特長がことごとく欠けているんだよ」
「……そういうもんか」
「そういうものだ」
 マスタングがあまりにもはっきりと頷くものだから、エドワードはくっくと咽の奥を鳴らしながら、天井を仰いだ。
「あー……バッカみてー」
 エドワードの正面に座すマスタングの位置から、震えるエドワードのしなやかな咽がはっきりと見て取れる。泣いているわけではなさそうだが、彼女なりに色々とこみ上げてくるものがあるのだろう。身を切るような思いで身を偽ってきたというのに、それがこうもあっけなく崩れ落ちてしまうとは。
 マスタングは掌をそっとエドワードの機械鎧の掌に重ねた。冷たい、無機質の感触がする。はっと顔を下げたエドワードと目が合った。
「北へ行きなさい、鋼の。少将殿ならきっとよくしてくれる」
 よくしてくれるどうかはさて置き、北の女将軍は少なくともエドワードを可愛がってくれている。彼女なりに。
 でも。
「俺に逃げろって? 俺がこどもだからか」
「君は軍人じゃない」
「俺は……!」
「君にさっきの民間人たちに銃口を向ける勇気があるかね」
 びくりと揺れた細い肩を、マスタングは痛ましげに見た。
「あれは……なんだったんだ……」
「不死の軍、とかつてレイブン将軍あたりは言っていたらしいが」
「不死の、軍?」
「民間人に軍属の錬金術師たちが特殊な術を施して、造ったらしい。」
「な……」
 なんてことを……。エドワードは顔を歪めた。なんてことをするんだ、軍は。
「ホムンクルスに極めて近い性質を持つようだね。再生能力はオリジナルに比べれば格段に下回るが。数回殺せば、絶命しないこともない」
「殺したのか?」
「襲われたからね」
 マスタングは何てことないようにさらりと言ってのける。
「私は今の軍のなかでは不穏分子なんだよ。他にも私のような人間が幾人も『何者か』に襲われている。殺された者もいる。生きている者の方が少ない。その少ない生存者の証言をかき集めたところで、その『何者か』の正体がだんだんと輪郭を帯びてきた。それが、不死の軍、だな」
「民間人だ」
「民間人の皮を被った化け物だ」
「本気でそう言ってるのか?」
「……殺らなければ、こちらが殺られる」
 これが、自分と軍人たる彼の違いか。エドワードは唇を噛み締めて、俯いた。ぎゅっと膝の上で手を握り締める。包帯が撒かれた掌に爪が食い込む。涙なんて絶対に流さない。これ以上の醜態をマスタングに見せたくなかった。
 俯いたエドワードのうなじがマスタングの視界におさまる。細いうなじだ。指を絡めたらいとも簡単に折れてしまいそうな、そんなうなじだ。嗚呼この子は少女なのだ、とマスタングは改めて知った。
 か細くて、か弱くて。そんな少女なのだ。
 そのうなじに指を絡めて、咽喉に親指を押し当てて、気道を塞いで、喘ぐ少女を見下ろす。喘ぐ唇は、薄く、桃色に色づく。――そこまで考えて、マスタングは重い息を吐き出した。
「大佐?」
「鋼の。私はね、ときどき君のことが心底疎ましく思うときがある」
 あ? エドワードは我が耳を疑った。冗談かと思いきや、マスタングは声も表情も大真面目だ。しみじみとひどいことを言う。とはいえ、エドワード自身にもマスタングにそう言われてしまうだけの所業を重ねてきたという自覚があるので、とび蹴りしたい衝動をここはぐっと堪えた。
「絞め殺したい、と思ったのは今日がはじめてだが」
「ころ……」
 絶句した。
 なまじ、先ほどエドワードとさほど変わらぬ年頃の少女に銃口を向けていたマスタングを見ていただけに、エドワードは全身の産毛を逆立てた。
「出来ることなら、君をどこかに閉じ込めておきたいと思うよ。おとなしくしてもらうんだ。安全なところで」
 嗚呼、そうだ。マスタングは言いながら、納得していた。自分はもう随分と長いこと、こんな気狂いじみたことを本気で望んでいたのだ。年端もゆかぬ少女相手に。まったく、天下のロイ=マスタングがなんて様だ。情けない。
「監禁たぁすげー趣味だ」
「君を閉じ込めて、自由を奪って、それからどうしようか?」
「あんた頭ダイジョーブか?」
「大丈夫そうに見えるかね」
「いや、ちっとも」
「そうだろうとも」
 自分でも大丈夫だとはとても思えない。
「大佐?」
 機械鎧の腕をとって、マスタングはそこに唇を寄せた。ぎょっと目を瞠るエドワードのその初心な反応に、マスタングは思わず苦笑する。その苦笑が、エドワードをどうやら勘違いさせたらしい。
「カラカウナ!」
 そう言ってエドワードは肩を怒らせた。
「……あんたな、そうやって女を口説きまわるのは自由だけど、こどもにまで言うのはよせ。こどもってヤツはなあ、素直だから勘違いしちゃうんだぜ」
 平時と変わらぬ軽口を装っているものの、エドワードの声音が微かに震えているのを、マスタングは聞き逃さない。
「いや、勘違いもなにも、実際に口説いているのだが」
「いい加減にしろ!!」
 エドワードはマスタングの腕を振り払って、叫んだ。
「声が大きいよ、鋼の。奴らに見つかったらどうするんだい」
「って、てめーっ」
「どうしようか、鋼の」
「な、何がっ」
 上ずった声に、マスタングは内心で満足げにうなづいていた。反応は、悪くない。
「ふたりきり、君は今ベッドの上、――どうする?」
「あ、あ、あほかっ冗談も休み休み言えよっ」
「私は本気だ」
「尚、悪い! いたいけな部下を手篭めにするたあ!」
「そんなこと、この私が許しません」
 え、とエドワードとマスタングは目玉をひんむいた。
 振り返れば、戸口に銃を構える女性が立っていた。銃口はしっかりとマスタングの脳天を捉え、目は血走っている。
「大佐、エド君からその汚い手を退けてくださいな」
 ――リザ=ホークアイ中尉だった。


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