客室フロアからフロントに降りてきた私服のロイ=マスタング大佐を、真っ先に目に留めたボーイが、マスタングの先回りをするように、ホテルの扉を開けた。
「お気をつけて」
すれ違いざま、白髪の頭を下げたホテルの支配人が、外へと出てゆこうとするマスタングに声をかけた。よく通る声だ。
「……あの兄弟から決して目をはなすな」
「はい」
「異状があれば直ちに私に連絡をよこせ」
「かしこ参りまして」
支配人のその声を聞き終える前に、マスタングはホテルを出た。
既に街は赤く染まりつつあった。完全に日が落ちる前に、用事を済まさなければ。暗い夜道を歩く羽目にならないように。
マスタングはホテルの前につけてあった車に乗り込む前に、今一度をホテルを仰いだ。エドワードに宛がった部屋のカーテンがしっかり閉まっていることを、確認して、そっと息をつく。このホテルにいる限り、エルリックのこどもたちは安全だ。あのボーイにしろ、支配人にしろ、このホテルの人間は皆、グラマン将軍の息がかかったものたちばかりだ。東部に飛ばされても尚、セントラルへの影響力を失わない将軍には、ほとほと頭がさがる。そして、これほどまでに心強い味方はいない。
とはいえ、ご老体にあまり無茶はさせられない。マスタングがやらねばならないことは五万とある。
さて、こどもたちのお守りは彼らに任せて――。
マスタングは車に身体を滑り込ませた。
お見事ですよ……、大佐。
つい今しがた、エルリック兄弟をこのホテルに残したまま、セントラルの街のなかに消えていってしまったロイ=マスタングに対し、アルフォンス=エルリックは白旗を勢いよく振った。
「兄さん、少しは休んだら?」
声をかけても、床に座り込んだまま微動だにしない背中からは、せいぜい気のない生返事しか返ってこない。
いやはや。本当に天晴れですヨ、大佐。あなたが与えた餌は、この人にはうってつけです。さすがです。
後見人の名前は間違ってはいなかった。マスタング大佐はエドワード=エルリックの扱いというものを十二分に心得ていらっしゃる。
「兄さーん」
アルフォンスは一メートルほど離れた背後からから、エドワードを呼んだ。なにせ、エドワードの身のまわりには、ダンボールまるまるひと箱分の書物がぐるりとところ狭しと並べられているものだから、アルフォンスはその背中にうかつに近づくこともできない。床に無造作に置かれたその本の山は、いずれもオークションで出品されたら、何百万から億単位の値段がつくであろう貴重な文献ばかり。繊細な感覚に乏しい鎧の手で、それらを触るのは、アルフォンスにはたいへんな勇気を有することだった。というか、触れない。触りたくない。
ふつうの人から見ればただの古臭い紙の束も、見る人が見れば、それが大変貴重なものだとわかる。ましてや知識に貪欲なエドワードに、それがわからないはずもなかった。そして、それらはすべて、マスタングが「エドワード=エルリックのために(マスタング談)」ということで用意していたものだ。
(兄さんのためにというか、大佐がエドワードの質問攻めから逃げるためだよね……)
あからさますぎるマスタングの対応に開いた口が塞がらなかったアルフォンスを他所に、けれど、エドワードはマスタングの思惑通り、ダンボールにいちもにもなく飛びついた。マスタングが箱を差し出した途端に、エドワードの目つきが変わったその瞬間を、アルフォンスはもろに目の当たりにしてしまった。そして、そのときのエドワードの姿のあまりの情けなさに、アルフォンスは思わず泣きそうになってしまった。これじゃあ、人参を目の前にぶら下げられて食いつく馬と一緒ではないか、と。
両手に手袋をはめて、丁寧に一枚一枚頁をめくる金髪の馬の背中を、アルフォンスは呆れを多分に含んだ目で見つめる。
「兄さん、そんながっつかなくたって、本は逃げやしないよ。ねえ、休みなって」
ふつうなら4日かかる旅路を、無理やり2日半に縮めるという強行日程でセントラルまでやってきたのだ。肉体的な疲労を感じないアルフォンスならともかく、生身の身体を持つエドワードが疲れていないはずがないのだ。
「兄さん」
「……」
「兄さん!」
「……」
「……ね……姉さんっ」
ゴン!
勢いよく飛んできた本が、鎧にあたって、弾けとんだ。大変貴重な本が無造作に床に落ちる。
嗚呼、なんて罰当りなことを……。
可愛そうな本を持ち上げて、アルフォンスははあと息をついた。
「物にあたらないでよ、姉さん」
「うっせー! 姉さん言うな!」
「あのねー、姉さん」
「に、い、さ、ん!」
そう言って、弟にすごんでみせるエドワードは確かに“兄さん”と崇めたくなるような迫力がある。いっそその筋の人間ならば「兄貴ぃぃ!」と呼びたくなるような、そんな迫力だ。そしてエドワードは迫力だけでなく、その腕っ節も男並み――否、並みの男以上だ。
が、アルフォンスが知るエドワード=エルリックは生物学上、女であるはずだった。たとえ軍に保管されている杜撰な戸籍に、「エドワード=エルリック・男」と記されていようとも、たとえエドワードが女性の象徴たるまろやかな乳房がついているのか大変疑わしい薄っぺらい身体つきをしていようとも、言葉遣いが荒々しくとも。エドワードは女だ。
物心がやっとついた当時の記憶を思い起こしても、エドワードは女だった。女だったはずだ。母をまじえて三人で入った湯船。そのとき、男であるからにはついているべきものが、エドワードには、なかった……はずだ。
(うう……なんで断定できないかなあ……)
エドワードの正真正銘の弟であるはずのアルフォンスですら、エドワードの性別を疑いたくなるほどに、確かにエドワードは男らしかった。
唯一、月に一度、エドワードが腹に手をかけてうんうん唸っているときだけが、アルフォンスに真実を教えてくれる気がする。そして、苦しんでいる姉には大変申し訳ないことではあるけれど、アルフォンスはそんな姉の姿にほっとするのだ。男の形をして飛び回るエドワードの姿は、たくましくもあるけれど、真実を知るアルフォンスの目にとっては痛々しいものにも思える。
――根無し草な生活をするとなりゃ、男のほうが何かと便利だろう?
そう言って、鋼の義手でピースサインを作り、屈託なく笑ったエドワードを思い出すと、アルフォンスはもうたまらなかった。
「あのねえ、兄さん」
「おうよ、金輪際姉さんなんて呼ぶんじゃねぇぞ」
アルフォンスは本日何度目か数えるのも馬鹿らしくなった嘆息をこぼした。
どうして。
どうして、大佐は気づかないのかなあ、と。
大佐にしろ、大佐のまわりにいる面々にしろ。どうして、エドワードが女だと気づかない?
軍の書類不備を逆手にとって、そのまま男に成りすましてしまったエドワードもエドワードだけれど。どうして。
女の名を語っても、駅員にちっともあやしまれないような容姿をエドワードはしている。「よく怪しまれずに済んだものだ」と暢気に感心していた様子だったマスタングだけれど、違うのだ。違うのだよ、とアルフォンスはマスタングに言いたい。エドワード=エルリックは生まれたときから女なのだから、怪しまれなくて当然なのだ。
そして、エドワード自身がそう言っていたように、弟の贔屓目を抜きにしても、彼女は間違いなく“美人”であった。
マスタングたちが気づかないのは、そう――彼らがエドワードに近すぎるからかもしれない、とアルフォンスはときどき思う。常日頃から男以上に男前なエドワードを見ているために、彼らは肝心なことに気づかないのかもしれなかった。
エドワードのほうも男として何年も過ごす中で、マスタングたちにはバレないという妙な自信をつけてしまったようだ。最初の頃こそ、嘘を隠し通すべく懸命に気を張っていた彼女だったけれど、今はもう傍から見ているアルフォンスがはらはらするくらいに、自然体だ。或いはその堂々とした様子が、ますますマスタングたちの目を使い物にさせなくなっているのかもしれないが。
「別に誰もいやしないんだから、姉さんって呼んだってかまわないでしょ」
「駄目。絶対に駄目」
曰く、日頃の癖というものはぽろりと外に出てしまうことがある。だから「姉さん」とは呼ばせない。
エドワードの言いたいことはわかる。もっともだ、とアルフォンスもわかる。
まあ、これ以上、この話題を引っ張るつもりも毛頭なかったので、アルフォンスは素早く頭を切り替えた。もともと、エドワードを「姉さん」と呼んだのは、本に没頭していたエドワードをこちらに向かせるための手段にすぎなかったのだから。
「じゃあ、兄さん、とりあえず今日は休んで。ほら久々のベッドだよ」
「いや、いい。大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょう」
「大丈夫だっていってるだろ!」
「全然大丈夫そうじゃないから言ってるんでしょ!!!」
黙り込んだのはエドワードのほうだった。珍しく声を荒げたアルフォンスに、驚いたのだ。
「全然大丈夫そうじゃないじゃない。ねえ――姉さん、何をそんなに焦ってるのさ」
エドワードの喉がごくりと鳴る。
焦ってる? 自分が?
「何を……」
「なんか変だよ、最近の姉さん。此間だって、あんなに大佐に電話するのを嫌がる姉さんが、自分から大佐に電話するとか言い出して」
変だよ、絶対に変だ、とアルフォンスは言った。
変? 変なのかな?
エドワードは足元に積み上げられた本をじっと見つめた。知識の宝の山が、そこに転がっている。だけど、真実、自分が求めるものは、果たしてそのなかにあるのか。
空振りだらけだった旅。何も得られないまま、時だけが刻々と過ぎ去ってゆく。こうしている間にも、時の砂はさらさらとエドワードの手から零れ落ちて、今や彼女の身体を飲み込もうとしている。そして、アルフォンスの身体は――……。
――俺にはお前がどうしてそんなに落ち着いていられるのか。そっちのほうがわからない。――喉元まで出かけた台詞を、エドワードは辛うじて飲み込んだ。それは絶対に言ってはならない言葉だ。
俯いたまま動かないエドワードの旋毛を見下ろすアルフォンスは、ますます不安になってきた。エドワードの――姉の考えていることが、どうしてもわからないのだ。いつだって、自分は姉の第一の理解者で、パートナーで、家族であったはずなのに。
「姉さん……」
「に、い、さ、ん」
「に、兄さん……」
「……アル」
「なに」
「ちょっと、出かけてくる」
ええ!!と慌てふためくアルフォンスを置いて、エドワードは逃げるようにホテルを飛び出した。マスタングに絶対に外出するなと口を酸っぱくして言われたアルフォンスは、外に姉を追いかけることはかなわない。
――何をそんなに焦ってるのさ。
焦ってる?
道の真ん中で立ち尽くしたまま、エドワードは顔を歪めた。無理に笑おうとして、結局うまく笑えなかったような、そんな顔だった。泣きそうにも見えなくもない。
(俺、焦ってるのか……)
それは、そう――事実だ。
だって……、だって、もう時間がない。
エドワードには時間が、ないのだ。
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