背後に控えるジャン=ハボック少尉が口元をおさえ、腹の底からこみ上げてくる吐き気にどうにか耐えようとしていた。精神的にも肉体的にも鍛えられた軍人でさえ“そう”なってしまう程に、彼らの眼前に広がるその有様は酷かった。
正気の沙汰ではない。
ロイ=マスタング大佐ですら、この惨状には胃が締め付けられるような感覚に襲われた。辺りに充満する化学薬品のものと思しき臭いが、さらに吐き気を助長させる。イシュヴァールの英雄と讃えられ、いくつもの死線を紙一重で駆け抜けてきた人間が、なんという体たらく。
マスタングは腹に力を入れて吐き気を堪え、そして、ぐるりとホールを見渡した。ここまで辿り着くまでに通ってきた迷路のように複雑に入り組んだ廊下や部屋を頭のなかに広げ、立体地図を描き出す。予測と予想をはるかに上回る広さ、そして深さ。軍中央司令部大総統府の地下によくぞここまで巨大な空間を造りだしたものだと憤りを通り越して、いっそ参りましたと頭を下げたくなるほどだった。
(――いや、違うか……)
マスタングはくつくつと咽を鳴らした。
中央司令部の下にこの空間が造られたのではない。この巨大な黒々とした空間の上に、中央司令部、或いはアメストリス国という名の砂の城が被せられたのだ。人でない人――人造人間(ホムン=クルス)に支配された国。――それが、この軍事国家の実態だった。
何を隠そう、この国家を掌握する大総統キング=ブラッドレイからして人造人間だったというのだから、ここまでくるといっそ笑い話だ、とマスタングは思う。
この国を影から操ってきた人造人間らの目的が何であるのか、マスタングは知らない。少なくとも人間を歯牙にもかけぬという人造人間たちが最終的な目指すものが人類の支配などではないことぐらいは、マスタングとてわかってはいるが、正直それ以上のことは興味もない。
だが、この状況を「はい、そうですか」と素直に受け入れることが出来てしまえるほど、マスタングは腐ってはいなかった。――だから、マスタングはここまでやって来た。
どのみち、この歪んだ国はそう長くはもたないだろう、とマスタングは考えていた。そして、大総統キング=ブラッドレイが忽然と姿を消してひと月が経過した今、マスタングはその考えを確信へと変えた。
キング=ブラッドレイという男の正体が人造人間であるという事実を知る数少ない人間達(つまり軍の上層部だ)がキング=ブラッドレイの突然の失踪で慌てふためいている様は、それを傍から見ていたマスタングの目にひじょうに滑稽に映った。そのなかで、マスタングはこの国の未来を垣間見た気がした。長いときを人造人間という他者に支配され、その支配を望むとも望まざるとも受け入れてきた彼らに今更急に“指導者”を求めること自体が、無謀な話なのだ。
大総統キング=ブラッドレイが去り、それより少し前にドクター・マルコーを筆頭とした国中の優秀な錬金術師達が幾人もその消息を次々と絶っていった。また、消えた錬金術師の大半が国家資格を有する所謂国家錬金術師たちであった。そして消息を絶った彼らの背後に闇に紛れてちらつく、ウロボロスの刺青を持つ人造人間たちの影。加えて、今日までに集めてきた“人柱”“扉”“真理”というキーワード。パズルのピースはそこに転がっているのに、マスタングはそれらを嵌めてゆく術を知らなかった。
只、一方でマスタングはやっと国家錬金術師の存在の意味を理解するに至った。国家錬金術師とは、ようは体よく優秀な錬金術師たちをかき集め、そしてそうやって集めた錬金術師たちを人造人間たちが何らかの目的のために使うための手段のひとつだったのだ。
イシュヴァールの内乱時には、まるで人間兵器のように戦地に送られたという苦い記憶。そして、あの戦乱から何年も経った今になってはじめて知った真実。マスタングは愕然とした。嘗て己が師に向かって投げかけた言葉はすべてが、幻だった。何が国のため。何が民のため。突き付けられた真実にマスタングは怒りすら通りこして笑ったが、笑うだけで済ましてやれるほど彼は甘くもなかった。
集められた錬金術師たちがいったい何のために使われるのか、マスタングには知るよしもないが、こんなところで呆けているわけにはいかない。呆けている時間もない。国が傾きつつある今は、図らずもマスタングの野望を叶える絶好のチャンスでもあった。――自らが支配者となるという野望。
国が沈むのが先か、それともロイ=マスタングが国をのっとるのが先か――。
「誤算はやっぱりこどもか……」
「なんすか?」
上官の呟きを聞き零したハボックが首を傾げるが、マスタングは、いや、と首を振った。
「それにしても酷いな……」
マスタングは改めてホールを見回す。広い空間のあちらこちらに見受けられる太古の人々によって記された神の系譜の図。ホールの壁中に張り巡らされたパイプやコード。床に描かれた複雑にして、巨大な錬成陣。そしてその錬成陣の上を覆う大量の血肉の海。鼻をつく腐臭。よくよく目を凝らせば、散乱した血肉のほとんどが乾き変色していた。ここで血が流されてから、それなりの時間が経っているらしいことはわかった。
錬金術に精通したロイ=マスタングでなくとも、ハボックでさえここで何が行われていたのかを想像するのは、容易いことであった。人間か、それ以外の動物を使った生体実験が為されていたのだろう。おそらくは“賢者の石”を錬成するための。
ここに辿り着くために何十と薙ぎ払って来た合成獣(キメラ)を思って、ハボックは静かに瞑目した。
「マトリックス……」
ロイの声がホール内によく反響した。ここのつくりは聖堂に近いらしい。音がやたらよく響き渡る。
「は?」
「ここにそう記されている」
ロイは錬成陣の隅に書かれた文字を指した。アメストリス地方より南の地で栄えたという古代文明の文字だった。もちろんハボックには読むことなど出来ない。
「子宮を模した錬成陣か……」
「そうなんスか? にしちゃエグすぎじゃありません?」
と、ハボックはあたりを見回した。吐き気は相変わらず治まらなかった。同時に心の隅で、吐き気をもよおす自分に安堵もしていた。こういうとき、嗚呼自分はまだ人間である、と再確認できる気がする。幾人もの人間をこの手で屠ってきた自分に、今更いったい何をもって人間らしさを語る権利があるのだ、とも思えなくもないけれど。
「生命の誕生の瞬間やそれに順ずるものほどえげつないものはないと私は思うがね」
そして、神聖なこともないとマスタングは思う。そう言ってうっすらと笑うマスタングの真意を汲み取れなかったハボックは、困ったように首を捻った。
「俺には難しすぎてよくわからないッス」
肉体労働専門なもので。そう言って肩をひょいとすくめて見せるハボックに、ロイはふっと苦笑した。
「――ああ、君はそれで、いい」
そしてロイは一呼吸置き、ふたたび部屋の隅々までを見渡した。エレベーターらしきものが奥にある。さらに地下があるらしい。
「……まったくとんだ迷路だ」
「他の連中も迷ってなきゃいいっすけど。中尉とか……」
一緒にこの地下迷路に侵入したホークアイ中尉とは、途中で別れた。行方不明になっていた優秀な錬金術師たちが捕らえられている部屋を発見し、今頃彼女の部隊は彼等の救助にあたっていることだろう。そしてそこに鋼の錬金術師エドワード=エルリックの姿は、なかった。
「エドたち、どこにいるんすかねー?」
「とうに人造人間どもに殺されているかもしれんな」
「え、縁起でもない……」
「自業自得だ」
本心でないにしろ思わずそう吐き捨てるように言いたくなってしまう上司の気持ちも、ハボックにはわからなくもないが、彼はそれでもエドワード=エルリックに同情を禁じえない。この甘さはよくないものだと頭ではわかってはいるのだが、それがハボックの性分でもあった。
「まあ、アルまで誘拐されちまったし。弟思いのエドとしちゃおとなしくしてろってほうが無理な話でしょう」
わかったような口をきく部下に、マスタングは少しばかりカチンときた。事実、部下の言うことが的を射ていることが、より一層マスタングを苛立たせた。
「お前はっ、鋼のにおとなしくしていろとあれだけ言って聞かせた私の苦労を何だと思ってるんだっ……!」
マスタングはそう主張するが、結局、鋼の錬金術師エドワード=エルリックは、マスタングの制止を振り払って飛び出していてしまったわけだ。
「わかってます。わかってますって」
「まったく、私の配下は本当にどいつもこいつも、こどもに甘い……!」
……そりゃあ、あなた自身が一番こどもに甘いですからね。ハボックは怒る背中に向かってそっとひとりごちた。
「何か言ったかね? ハボック少尉」
「い、いえ。――とにもかくにも無事だといいんすけどねー」
「まあアレがそうおとなしく奴らに殺されてるとも思えないが。それよりも、とんでもないことをやらかしていないとよいがね」
「とんでもないこと……」
反芻しながら、ハボックは顔をしかめた。頭はよいくせに無鉄砲が過ぎるこどもが今まで各地で起こした事件を振り返ってゆく。
「……人体錬成」
「アレの頭のなかにその選択肢がないわけがないだろう。幸か不幸か、ホムンクルスどもは賢者の石をたんまりと持っているらしいじゃないか」
まったく、とマスタングは薄汚れた発火布をはめた手で頭をかく。
「――だから子守は好かないんだ。こども粗相を拭うのはいつだっておとなの仕事だ」
そして、マスタングは黒いブーツをさらに深い闇のなかへと進めた。聞き分けのないこどもに対する悪態を吐きながら。
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