「ハウルさん、何かいいことがあったのでしょうか……」 城の主であるハウルが仕事前の朝風呂に入るべく二階にいってしまったあと、ソフィーの朝食作りの手伝いをしながらマイケルはこそりと囁いた。
「そう?」 ベーコンを炒める手を休めることなく、ソフィーは言った。 「カルシファー、もう少し火を強めてくれるかしら?」
「えぇ、そんな殺生な…」 と、フライパンの下の火の悪魔は口を尖らせつつも、ソフィーに言われるままにその青い火の威力をほんの少しだけ強めた。 「ハウルの風呂炊きもしてるっていうのにさー、みんな、おいらのことこき使ってばっかりで参っちゃうよ……」
「ふふ、あなたのことを頼りにしてるのよ」
にっこりとソフィーが笑えば、青い火が一瞬強く燃え盛る。火の悪魔は、火の悪魔なりに照れているらしい。げんにフライパンの下からは 「えへへ、そうかな。そうかな」 とまんざらでもなさそうな声が聞こえてきた。
「ソフィーさん、ぼくの話を聞いてます?」 ぼくは真剣にお話してるんですけど、とマイケルが文句を言う。それでもサラダのための野菜を切る手を休めないのは流石といったところか。なかなか手馴れたものだ。
「ええ、もちろん聞いてるわ。ハウルに何かいいことがあったかも…でしょう?」
そうです、とマイケルは頷いた。
「何故、そう思うの?」
「さっきも鼻歌交じりに二階にあがっていきましたし」
「あの人の能天気さはいつものことじゃない。雨が降ろうが槍が降ろうが、自分に害さえなければにこにこ笑っていられるような人よ、アレは」 と、ソフィーはベーコンを炒めていたフライ返しで天井を指差す。台所の丁度上の階はお風呂場だ。ハウルは今頃、湯船につかってゆったりくつろいでいることだろう。
「でも、朝からハウルさんが鼻歌を歌うなんて……」
低血圧で、朝にはすこぶる弱い彼らしからぬ、とマイケルは主張する。言われてみれば、そうだ、とソフィーは思った。それに今朝に限って、彼はソフィーのモーニングコールの前に自ら起きてきたし。
「たまたまじゃなくて?」
「違うよ」 と、言ったのはカルシファーだ。 「ハウルのやつ、最近、妙においらに優しいんだ」
「どういうこと?」
「風呂の温度指定がいちいち細かくない」
なるほど。ソフィーは頷いて、天井を見上げた。
それだけじゃないですよ、とマイケルが続ける。 「昨日だされた魔法の修行の課題は、いつものハウルさんらしくなく、ものすごく少量でした」
「たしかに変ね……」
「ねえ、ソフィーさん、ぼく、嫌な予感がするんですけど……」 包丁を抱えながら、マイケルは言う。
「おいらも、嫌な予感がする」 悪魔の予感はあたるんだぞー、とカルシファー。
ソフィーはうーんと唸りつつ、ベーコンを皿に盛った。
◇ ◆ ◇
おはよう、と朝一の講義で一緒になった友人に声をかければ、彼女は死人のような目でソフィーを見上げた。
「どうしたのよ、マリー」 酷い顔ね、とマリーウェザーの額に手をあてみれば。うん、熱はない。
「あんたは朝から爽やかね。今日は基礎魔法論の日だっていうのに……」
嗚呼、絶望だわ、とマリーは頭をかかえて机に突っ伏した。
基礎魔法論の講師が事故にあい(噂では魔法使いの僕とも言うべき烏たちに襲われたとか。ただし信憑性はまったくもってない)、基礎魔法論がしばらく休講になった、という情報がカレッジ側から掲示されたのがつい一週間ほど前。基礎魔法論の臨時講師が決まった、とカレッジが発表したのは、さらにその一週間後―――昨日のことだった。
基礎魔法論から開放されたと喜び、喜び、喜び。とにかく喜びまくった天国のような時間は、たった一週間で終わってしまった。親友のマリーウェザーはそれはそれは不幸のどん底に落ちたかのように、心底落胆していたが、ソフィーはというと、いつものレポートに追われつつも平穏な日々が続くものだと思っていた。そりゃ、基礎魔法論がなければ大分楽にはなるけれど、それでも学生はカレッジに一応勉強しに来ているわけであるし。
「仕方ないわよ。それにこっちは学費を払ってるわけだしね」
「ソフィーはいいわよ。基礎魔法論、実は得意科目じゃない。いつもいつも小テストは満点近くで……」
「そういうあんたは、化学が大の得意じゃないの」
「でも、基礎魔法論よ。大事なのは基礎魔法論よ……。嗚呼」 マリーは目に涙さえためながら、絶望の声をあげた。 「3限が怖いわ…」
「大丈夫よ」
「その楽観的な思考はどっからくるの」
「なんとなく」
「あたしは嫌な予感がしてならないわ。なんか妙な臨時講師が登場するのよ、きっと。もじゃもじゃ頭の偏屈親父みたいなのが……嗚呼!!嫌だ!」
(“嫌な予感”ねぇ…) 今朝のマイケルと同じ発言をする友人を、ソフィーは苦笑い交じりに見つめた。
◇ ◆ ◇
「ペンドラゴンです」
厳格な学者をそのまま絵に描いたような漆黒のマントに身を包んだ男は、しんと静まり返った大教室の教壇の上で、よく通る美声で実に簡潔に自己紹介をした。
遠めに見てもさらさらでくせのない黒髪は、男性にしては長い。それを後ろで結んでいるのは、黒くて細めのリボンだ。どこかで見覚えのあるリボン。それも、そうだ。当然だ。なんといっても、あのリボンはソフィーが旦那にプレゼントしたものなのだから。
「んな……」
開いた口が塞がらない。大教室のやや窓際よりの席で、ソフィーは目を見張った。
ここは、どこだ。カレッジだ。ソフィーが通っているカレッジだ。
今はなんの時間だ。基礎魔法論の時間だ。
そして、あれは。教壇の上に立つ全身黒尽くめの男は誰だ。基礎魔法論の臨時講師?ペンドラゴン?
(ハウル…!?)
何であんたがここにいるの、と叫びたい衝動をかろうじて押さえつけながら、ソフィーは深呼吸を繰り返す。そんなソフィーに気づいたマリーウェザーが心配そうにソフィーの顔を覗き込んだ。
「ソフィー、大丈夫?」 マリーはソフィーだけに聞こえる程度の声で囁いた。 「あんた、顔色がものすごく悪いわよ?」
「へ、平気……」
多少声が上ずってしまったが、これ以上気持ちを落ち着けることなど、今のソフィーには不可能だ。
なんで。どうして。どういうこと。
ペンドラゴンなんて名乗ってはいるが、あれはハウルだ。髪の毛もふだんの金髪ではないけれど、あれはハウルだ。ソフィーの旦那にして、王室付き魔法使いのハウルだ。
(なんで、ここにハウルがいるのよ!)
おそるおそる教室を見渡せば、女生徒という女生徒が目をハートにしている。なかには男でも、頬を赤らめている者までいる。教壇の上の漆黒の臨時講師に見とれているのだ。見れば、ソフィーの右隣に座っていたウィリアムまでもが、ぽーっとしているではないか。日ごろから、「ぼくは美しいものが好きなんだ」と豪語してならない彼らしいといえば、らしいが。
ふと、教壇の上の彼と目が合う。ソフィーはペンドラゴンを名乗る旦那をきっと睨みつけたが、彼はソフィーにだけわかるように、笑うだけだった。
「カモミール先生が復帰なさるまで、わたしがこの授業を担当します。えーわたしも一応、魔法使いの端くれなんで、精一杯あなたたちに魔法について講義したいと思うので、よろしく」
(んな……)
ひゅっと、左隣のマリーは小さく口を鳴らして言った。 「うっひゃー、あんなお綺麗な魔法使いが、いるんだねー。カモミールのじいさんとは大違い……ん?ソフィー?」
「何」
「酷い顔よ」
「そう?」 ずきずきと痛む頭を手でおさえながら、ソフィーは分厚い教科書を広げる。
教壇に立つ彼をもう一度睨みつければ、やっぱり彼は微笑んでいた。
(ハウルの動く城,2005/08/10)
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