むかえるということ
末妹のフィオナ=ロザリンドが12人の兄たちの前に連れて寄越した恋人は、誠実を絵に描いたような男だった。どんな男だろうと返り討ちにしてくれると意気込んでいた兄たちの堅い決意を、木っ端微塵に砕いてしまうほどに。
もしフィオナの恋人が美しいだけの男ならその顔をめっためったに切り裂いてロンドンの街中のドブにでも捨ててやったし、小賢しいならその鼻ッ端をへし折ってやるだけのことだったのだが、実際に連れて来られた男の容姿や頭がこれといって優れているわけでもなかった場合、いったい、どうしたら……。
祝福せよ、とどこからともなく神の声が聞こえる気がすると悲嘆の涙にくれたのは、ライナス=キング(職業、牧師)だった。そんな兄の涙を目にしてたいそう腹を立てたロレンス=キング(極度のブラコン)は兄を泣かせた憎き男を 「誠実な“だけ”の男だ」 と酷評したのだが、いい年してちゃらちゃらと遊びまわる“だけ”の放蕩七男が誠実な“だけ”の男をどうして悪く言えるのだ、という情けない話だった。
情けないのは、何もロレンスに限ったことではなかった。ロレンス他のロウランドの兄弟たちも自らが誠実さとやらに欠落したロクデナシであることを少なからず自覚していたし、誠実であることのむずかしさや大切さを知っていたので、結局、その 誠実な“だけ”の男に文句ひとつ言えやしなかったのである。
祝福せよ。――神は無情にも12人の兄たちに言う。
「……反面教師かな」
ため息交じりにそう呟くロウランド伯爵アルバートの視線の先、上等なワインボトルを片手に、ウェディングドレスの裾を持ち上げてお転婆よろしく野原を駆け回るフィオナ=ロザリンドの満面の笑顔がある。フィオナの結婚を祝う内輪のパーティーが開かれた今日この日、空は英国らしからぬ雲ひとつない快晴で、それが尚のことアルバートをむかつかせた。この空のどこかにいるであろう神はフィオナをこの上なく祝福してくれているらしい。なにせ、この青空。ありえないほどの、この青空。英国としてあってよいものか、こんなくそ青空……! そして当のフィオナは 「神さまなんて信じていない」 をモットーに周囲を巻き込みながら日々をおもしろおかしく暮らしているのだから、皮肉にも程がある。
「12人の兄が揃いも揃って見掛け倒しの、ロクデナシですからねえ」
自分含め、と自嘲するようなことを言っておきながらも、にこにこ笑顔を絶やさないライナス=キングに、アルバートはふふんと鼻を鳴らした。ちょいと前まではフィオナ結婚なんてしないでくれフィオナ、と毎晩のように枕を涙でぬらしていた男がなにを笑っているのか。
「おまえは変わらんなあ。おとなになって少しは巧く立ち回れるようになったかと思いきや。牧師なんぞになって、すっかり枯れちまったんじゃないか」
兄弟のなかでも頭のなかの作りはずばぬけて優れているくせに、幼い頃から殊、人付き合いにおいてその不器用っぷりをいかんなく発揮(しなくてもよいのに発揮)してきたライナスは、おとなになってもやっぱり不器用だった。社交辞令や世辞は言えるようになっても、自分の気持ちを他人に伝えることが根本的に不得手なのは幼い頃とちっとも変わらない。尤も、それはアルバートを含めた12人の男兄弟たちに共通して言えることなのかもしれない。
(弟たちにゃ、堅物か、ひねくれ者か、すっとこどっこいかしないからなあ……)
ひねくれ者の代表格である長兄アルバートはそんなことをぼんやりと考える。
家族や他人に対して、好き、の一言をなんのてらいもなく言ってのけるのは、13人の兄弟のうち末妹のフィオナくらいだ。とはいうものの、万が一にも男兄弟に好きよ愛してるよなんて言われた日には気色悪く思いこそすれ、嬉しいだなんて微塵も思えないだろうが。なにはともあれフィオナは別格である。「大好きよ、お兄ちゃん」 と言って抱きしめてくれる末妹がかわいくないわけがない。かわいいと思わない輩がいたら、そいつは人間じゃない。貴族の血だの庶子だのと、その手のことにやたら拘るグレゴリー=ロウランドですら、血の一滴も繋がらないはずのフィオナに今やすっかり懐柔されているくらいだ(グレゴリー本人は断固として認めないが)。
つまるところ、フィオナはかわいい。かわいいったらかわいいのである。
かわいいかわいいフィオナ。そんな彼女に同じ庶子の長兄として一番目をかけてやっていたライナスが、フィオナの結婚を喜ばしいものとする反面、悶々とした割り切れない気持ちを抱えていることを、アルバートは知っていた。その上、神を信じないと言って憚らない末妹は自らの結婚式に牧師はいらんと豪語し、結局、末妹の結婚だというのにすっかり出る幕を失ってしまった牧師のライナスの立場たるや。哀れとしか言いようがない。ひどく落ち込むライナスにアルバートは 「よかったじゃないか。進行役の牧師が滂沱してりゃ世話ないからなあ」 なんて慰めにもなっちゃいない慰めを施したりもしたのだけれど。
「年甲斐もなくあっちにこっちにそっちにふらふらしている御当主様には言われたくないですよ。そういえば、次はどちらへ?」
「……かわいげがないなあ、おまえ」
散々慰めてやってやった兄に、なんという仕打ち。
「かわいいのはフィオナだけで充分です」
「よくもまあしゃあしゃあと。まったくそれだけ言えるなら……」
「言いませんよ」
アルバートの言葉を遮るようにして、ライナスはきっぱりと言った。
「あれは私たちの大切な妹ですもの」
「おまえ、墓場まで持ってくつもりか」
「そういうんじゃありませんもの」
「うそつけ」
「うそじゃありません」
「うそだ」
しつこいなあ、とライナスはこれ見よがしに嘆息をつく。
「まあ、いいでしょう。仮に、もし仮にですよ、僕がそういう目でフィオナを見ていたとして」
「見てるだろ」
「だから仮にの話ですってば」
「はいはい」
「それでも僕はどこかの鬼畜眼鏡に半殺しにされるのは嫌ですから」
冗談とも本気ともつかない聖職者の物騒な言葉に、アルバートはかわいた声で笑った。たしかにどこかの鬼畜眼鏡、もといウィリアム=ロウランドなら、それくらいのこと顔色ひとつ変えずにやってくれるだろう。「ウィルの場合、ロクデナシ揃いの兄弟に最愛の義妹を奪われるくらいなら、いっそ余所者に攫われてくれたほうが、まだましなんだろうよ」
かくいうアルバートもそのウィリアムと揃って、フィオナの恋人がどこの馬の骨かを徹底的に調べ上げていたわけだが。自分のことを棚にあげてよく言うものだ、とライナスは呆れたように肩をすくめてみせた。
「……まったく、埃ひとつでてきやしない」
「叩けば埃だらけの我々とは大違いですねえ」
それでも、こんな埃まみれのロクデナシの兄たちをフィオナは愛してくれるのだから。
ふいに、兄弟のうちの誰かがぎゃーと叫んだ。フィオナが転んだらしい。花婿とヴィンセント=スタンリーが慌ててフォオナを抱き起こしている姿を目にとめて、アルバートとライナスは揃って苦笑いした。フィオナの白いドレスは泥だらけになっていた。へらりと笑うフィオナをグレゴリーが 「こんのお転婆がああ!」 とものすごい形相で一喝して、アイザック=ロウランドが血圧のあがったグレゴリーを落ち着けるべくその口に無理やり酒を流しこみ、ディック=スタンリーが慌てふためいている。やんややんやと大騒ぎな結婚パーティーだ。神聖さの欠片もないが、フィオナの結婚らしいといえば、らしいと思える。
「たしかに牧師なんぞいらんなあ」
信じてもいない神になんぞに誓わない、とフィオナは言っていた。そのかわり、大好きな兄たちに誓うのだ、とも言った。病めるときも、健やかなときも、伴侶を愛し、愛され、そうして、フィオナ=ロザリンドはきっと幸せになる。胸をはって誇らしげにフィオナは言うのだ。
「まったく、あの子には敵う気がしませんよ」
「はっはっは。惚れた弱味だな」
間髪入れずに、こめかみに押し当てられた鉄の感触に、アルバートは冷汗をかいた。
「……冗談だというのに」
「……笑えない冗談です」
ライナスはアルバートに押し付けた拳銃を涼しい顔で懐にしまった。
まったく、拳銃を持ち歩く牧師なんて聞いたこともない。
「……そういえば、ウィルはどうした」
「いつものテラスで紅茶でも飲んでるんでしょう」
「こんな日だってのになあ、あいつは……」
「あの人の場合は愛娘を嫁にやる父親の心境なんでしょうよ。私たちよりよっぽど重症です」
ライナスは肩をすくめ、アルバートは盛大にため息をついた。
「呼んでこさせるか」
「いえ、フィオナが今日はそっとしておいてやれ、と」
「……なんだそりゃあ」
「お別れなんだそうですよ」
誰と?
訝しげに眉をひそめるアルバートに、ライナスもどこか戸惑うように笑った。
「あなたは幽霊を信じます?」
「フィオナの言うあの話か」
「そうです」
「……俺が信じると思うか」
信じるわけがないだろう、とアルバートは酷薄に笑う。
かくいうライナスもきっと幽霊なんて信じちゃいないだろう。
それでもライナスはフィオナがかわいいので。そのかわいいかわいいフィオナが、この館に住まうという女幽霊たちを想って涙を流すので。そして、テラスに佇むウィリアム=ロウランドの傍にはいつだって彼の亡き妻の幽霊が寄り添っているのだと言って、やっぱり涙を流すものだから。
「……で、幽霊さんたちがどうしたって?」
深いため息をひとつ。アルバートは投げやりな口調で、ライナスに問うた。
「いなくなるんだそうです」
「ほう」
フィオナは他所に嫁ぎ、この館を去る。彼女の言うところによると、幽霊たちも間もなくしてこの館を去るという。
「なんでまた?」
「さあ……。さすがの彼女たちももうこの世に思い残すことがなくなった、とかそんなところでしょうかね」
アルバートは自分を産んだ女が死んだ日のことを思い出した。もう随分と昔のことのように思える。実際に経った年月を指で数えて、驚いた。10本の指を使っても足りない。
「……俺たちも歳をとるわけだ」
この館の主がアーサー=ロウランドでなくなって久しくなったように、時間は確実に流れていく。
たとえば、フィオナの話のように、ロウランドも、キングも、スタンリーも、ウィリアムの妻子も、死しても尚この館のどこかに住んでいたというのなら、そのままでいればよかったのに。ずっとずっと、ここで、13人の兄弟とともに、みんな一緒であればよかったのに。そんなことを考えてしまう。
(嗚呼、まさかこの俺がこんな感傷的なことを考える日がくるだなんて)
歳だなあとアルバートは改めて思った。そして歳をとることも悪いものじゃないと、そう思うのだった。
ハニーローズ|title by d|20101016