―― 梢 ――




(君がくれる    は、)


「風茉君? どうかした?」
「…………別に」
 休息も兼ねて居間で書類に目を通していたところ、そろりと近付いてきて開口一番尋ねられたのはそんな機嫌伺い。特に不調のつもりもなかったので正直に答えれば、そう? と首を傾げたのは彼女。そのまま自分の隣に座って、じっと顔を見てくる視線。気付いて横目を向けると、かちり合う双眸。にこりと微笑んだ彼女の容貌は、出会った時から比べると端麗さを増していて、初めて見た幼少の折と比べれば面影は残しているものの今や立派なレディ。婚約者として対面してから三年経てば、彼女も二十歳になる。一方の風茉はようやく十三歳。背は伸びた。体付きも多少なりと変化した。年月を掛けて実績を重ねれば、ますますもって無能な親族連中も陰口のひとつくらいは減るかと思えばそこは変わらず陰湿な誹謗中傷。そんなことは風茉にとって懸念すべき事ではなくて、彼にとっていつでも気掛かりなのは目の前の彼女の存在。
 定位置になった隣に座って自分の調子を窺ってくる咲十子は、風茉の些細な機嫌さえも見て取ってわかってしまえるほどに近い存在になっている。伸ばした手を掴んで、握り返すことも、今の二人にとってはごく自然のこと。恥ずかしさよりも安堵の方が大きくなって、月日は確実に流れていることを実感するのに、手元に燻り続ける変わらぬ焦燥。ぎゅっ、と、あたたかな温もりをさらに力を込めて握れば、彼女は少し驚いたように身を揺らしながらも「どうしたの?」とまた先に聞いた問い。元より理性的なのは彼女で、彼女のことになると箍が外れてしまうのは風茉の方。それは昔から。一層、その格差は広がったようで、やんわりと、然れど頑として自分の低調を窺ってくるのは彼女が心から心配しているからくらいのことはわかるから、余計に募るのは焦燥か――それとも。
「……咲十子の手、あったかいな」
「そう? ……冷え性対策とかしてるから、その所為かも」
 横目で見ると、部屋の暖房で温められたのか(それとも手を握ったから?)少し赤いほっぺ。肩の長さで揃えられている栗毛色の綺麗な髪の毛が、頬を半分、隠しまっていることが勿体なくて、空いた片方の手を伸ばしていた。唐突な風茉の行動に彼女が少し驚いたように目を瞬いて、身を僅かに引く。彼女の頬に届いた指先で髪の束を耳に掛けると、その表情がしっかりと露わに見られて胸の奥に灯る喜びの飽きないこと。自然、距離は限りなく近付いていて、息が拭き掛かりそうなほどの近さ。この距離感までくると、逆に、理性的な彼女の方が狼狽えて、箍が外れた自分の方に余裕が…………なんてことはまるでないのだけれど、繕うことくらいできるのは多分男の性というか矜持というか、こんな可愛い顔をはっきり見ないなんて勿体ないというのが偽りのない正直。
「ふ、ふ、ふ、風茉君……っ?!」
 突然の近さに慌てふためく彼女の反応に心を躍らせながらも、こんなにも物理的な距離は容易く縮められるのに、歳の差、時間の差、絶対の差が埋まらないことを不意の瞬間に痛感する。
 七歳の差。何年経っても縮まらない距離。
 家柄や年齢で見下す和久寺の性質に屈したくないが故に積んだ研鑚も、彼女相手には意味がない。彼女の細い手を包み込む為の大きな手の平や、あたたかな温もりを包める大きな腕、小柄な彼女を抱きかかえられるような背丈、それらを得るためにはどうしても、まだ、まだ、待たなければならない。『あと数年もすれば、そんなこと関係なくなるのに』――慰めのように掛けられる言葉。そんなことわかり切っているくらいわかっているのに、今、【それ】を持っていないことが歯痒くて、ジレンマで、泣き所なんて――絶対に口には出せない、から。
「……風茉君、本当に、どうかしたの? 何かあった?」
 額に仄かな熱が落ちてきた。柔らかな彼女の髪が風茉のほっぺをくすぐる。耳に馴染む声。息が感じられる距離で発せられたそれは気持ちがよい。
「…………何で?」
「え?」
「何で、さっきから俺に何かあったかなんて思うんだ?」
 焦点すら合いにくい近さで彼女の双眸をのぞき込む。自分の馬鹿みたいに真剣な顔が映っていることに笑ってしまう。その表情の変化にどうしてか彼女の身が僅かにまた身動いで顔にも多少熱が刺したように感じたけれど、手を握って、頬を捉えている姿勢から、彼女の逃げる余地はない。
 優勢なのは自分。イニシアチブは自分にある……そんな自負も、彼女の溢れる吐息ひとつを前に、あっさりと崩されてしまう。
「……わからない」
「は?」
「なんとなく。風茉君、元気ないのかな、って……違うかな。んー……元気ないとかじゃなくって、……何かあったの?」
「……俺に聞くのか?」
「だから最初から風茉君に聞いてるじゃない。どうかしたの? って」
「…………」
 吐息で忍び笑い。考えてみればおかしな状況で、開放的な居間に寄り添いながらまるで内緒話のような緊密さで会話をしている自分たちは傍目には果たしてどのように映っているのか。使用人も多く抱えるというのに先ほどから誰一人として居間に立ち入ってこないのは、おそらく若い恋人たちの、そして将来は夫婦になる二人を慮ってのこと。出来た守役もこの場面を前に、踏み込んでくるような無粋な真似はしないだろうから、彼らと、そして彼女にこの場は甘えてしまおうと。
「……咲十子のこと、考えてた」
「…………え?」
 彼女の肩に額を落としてしまったのは、彼女の顔を見ていることが恥ずかしくなったからだろうか。
 三年経っても追いつかないとか縮まらないとか、本当はそんなことはなくて、確実に自分たちは変わっていて、彼女を恋しく意識する気持ちは年月と共に肥大して、持て余しそうにすらなって、彼女や周囲への甘えも自覚するくらいには弁えていて、それをよしとする自分も居て。
「知ってるだろ? 俺はもう、ずっと昔から、咲十子のことばっか考えて生きてきたんだ」
「っ……」
「こんなにも直ぐ側にいるのに、足りない。咲十子のことだけはどんなに我が儘になったって足りないんだ」
 絡んだ指の一本一本を放すまいと力が入った。本当はわかっている。出会ったばかりの頃はこの指だって、もっと小さかった。彼女の手を握ることも満足に出来なかった自分の手は、あの時よりも成長している。精神的なことも身体的なことも、いざ停滞しているのかと湧き出た不安に立ち止まってみれば、ちゃんと地道に進んでいることはわかっている。――それでも懲りずに繰り返す葛藤。
「……ね、風茉君。本当は、風茉君が十七歳くらいになってから私に会いに来るつもりだったって言ったの、覚えてる?」
「…………」
 うん、と返事をする代わりに、顔をゆっくりと上げた。それを待っていたような彼女の微笑みは、ひどくやさしい。
「今もその方が良かったって思う?」
 三年、経った。
 あと、三年。
 例えば十七になった自分を想像して、十の時のような引け目を覚えることなく彼女を迎えに行っていたら、みっともない姿の数々を見られずに済んだかも知れない。
 けれど、あと三年。
 きっとこの先も同じようなジレンマを性懲りもなく抱えなければならないのだろうけど、知ってしまえば、そんな選択がもう選べるわけがない。自然と、風茉の頬が弛めば、それを見た咲十子の頬も共鳴するように嬉しそうに弛んだ。
「そうなったら、風茉君ばっかりでずるいよ。私だって、風茉君のこと考えていたかったって絶対思うもの。今だって思っちゃうくらいよ」
「……文句は自分の記憶力に言うんだな」
「もうっ、可愛くないんだから」
 顔を真っ赤にして言う科白じゃないっ、と頬を膨らませる彼女にもう一度触れる。
「……ま、例えば咲十子に恋人が居たところで奪ってやるつもりだったけど、他の男に目がくれてたかも知れないってだけで面白くないしな」
「なっ……」
「覚悟してろよ。しわくちゃの婆さんになったって、離してやらないんだから」
「ッ……!!」
「その頃には――――」
 思わず口を突いてしまった呟き。聞き取ろうと「え?」と目を瞬かせた彼女に、何でもない、と言って、反論の声を封じた。
 今は、これがいい。多分、これでいい。
「ふ、ふう、まくん……」
「咲十子のこと、めちゃくちゃ幸せにしたい。ずっと俺の隣で笑ってて欲しい。その為なら俺は何だってするから」
「風――」
「そうしたら俺ってものすごい幸せだな、……って、考えてた」
 答え。
 目の前で顔を真っ赤にさせる彼女が、恋しくて愛おしくて、これからずっと一緒に居られるのだと思えば目が眩んで息が詰まってしまいそうなほどの幸せを覚えながら、けれど幻想を抱くだけのつもりはないのだと強く覚悟も忘れない。
 ひとつ、またひとつ。
「……やっぱり風茉君はずるいよ」
「こっちだってハイリスク抱えてるんだ。負けてられるかよ」
「こういうことは勝ち負けじゃないでしょ」
「でも俺は咲十子がきっと参るくらい咲十子が好きだ」
「……そんなことないもん」
「…………でも俺の方が好きだ」
「わ、私だって今は風茉君に負けないくらい風茉君のこと、すっ好きだものっ」
「そんなことない。俺の方がずっとずっと咲十子のこと好きだね」
「……バカップルって言葉知ってる?」
「上等だ」
 もう一度、触れて、触れて、互いの好きという言葉が互いに吸い込まれるように触れたら、煩悶も憂慮もどうでもよくなっていた。


(――――つもるばかりだ)

Deare mine|201103|written by Kinako