―― それはつまり ――




 手を伸ばす。わずか指の先に見えるお前の姿が、ひらりと逃げていく。水面に差し込んだ掌が何も掬えぬまま空気に触れることと同じように、また俺は己の無力さを呪いながら瞼の裏に残る残像だけを抱きしめなければならないのか。指の間からさらさらと「何か」が零れて跡形もなく消え去っていく恐怖観念。感触だけが確かにそこには残っていて、悔しさだけがいつまでも尾を引いて心に停滞する。
 唇を噛み締めて唸る声は祈りなのかもしれない。
 別に言いなりになって欲しいわけじゃあない。自分を咎めるその声すら、愛することの糧となる。じゃあ、自分は何が欲しいのだ?
 問うてみても、何も出てきやしない。強いて言うならば、全てだとでも言うのだろうか。

 だらりと体中の力を抜いて存在することの自由さを、今更ながらに知ってしまった。一度味を占めてしまうと、その心地よさばかりを追い求めて、貪欲に常に飢えているかのように追い求めてしまう。これまでにどれほどの虚勢を張って、張子の虎のように虚ろに生きてきたのかと思うとため息しかでてきやしない。甘やかされることと甘やかすことは同等の価値を持ってお互いの関係性を形成している。難しく考えることは無い。つまりは、甘えたいし、どろどろに甘やかして自分だけの中に閉じ込めておきたいのだ。知られてはいけない、身勝手な独占欲。
 こうして、二人で時を過ごすことの意味を考えたことがあるだろうか。当たり前のように横たわっている時間軸を一緒に歩んで行けることの幸福と、一分一秒でさえも惜しむこの根拠の無い焦りをどうやったらわかってもらえるだろう。同じように明日が来るわけではないのだと、ちりちりと胸を焼く名前も無い不快な感情を消化させることも出来ないまま、幼い自分はこうして与えられた恵まれた環境に口をつぐんだまま身を委ねるしかないのだ。

 いつものようにベッドには糊が効いた白いリネンが敷き詰められている。枕は、一体何羽の鳥が寒い夜を耐えているのかと考えさせられるほどパンパンに羽がつめられており、そこにも糊の効いた真っ白な布が有り余るほどの清らかさを持って被せられている。清潔さに満ち溢れた寝具の上に、躊躇うこともなく光也は体重を掛けて腰掛けた。
 そんな奔放な光也を視界の真ん中に据えて、特に考えることもなく言葉が転がり出た。脳みそのフィルターを通さない、素直な気持ちだと、まるで他人事のように考えた。


「僕は贅沢なんだろうか?」
 当たり前だろうと、理性的で冷静な思考が答えた。それは僕が一番わかっていることじゃないかと。
 予想通り、きょとんと目を丸くして、本当に不思議そうに光也が答える。ピカピカと光る目ン玉の真ん中に、苦笑いする僕がいた。
「何言ってんだ?」
「僕の話だよ」
 だから気にするな、と笑ってみせる。それでも納得していないのは明白で、その証拠に額に皺がよっている。それ以上の追求を拒むかのように僕は口付けてやろうかと顔を寄せるけれど、あっさりとかわされてしまった。その代わりといってはおかしいけれど、逃げられないように両腕で光也の体を抱え込む。首筋に鼻を寄せるとしゃぼんが微かに顔って、頭の中心が溶けてしまうのではないかと思った。緊張か、羞恥心ゆえか、じわりと汗ばむのが皮膚越しに伝わって、そしたらたまらなく愛しくなってしまって涙が滲む。どうしようどうしよう、こんなにも愛しく人を愛せてしまうものなのだろうか。そんなことばかり考えてしまう。
「ちょ、ちょっと離せ仁!」
「いやだいやだ」
 駄々っ子のように首を振れば、光也はふう、と息をついてそっと笑ったようだった。いつものように、僕の気まぐれだとでも思ったのだろうか。
「逃げねえから、さ。なあ仁」
 強張っていた体から緊張が抜けたことがわかった。背中に少しだけ熱い光也の体温。肩甲骨のちょうど真ん中辺りを、ぽんぽんとまるで赤子をあやすようなぎこちない手つきで何度も何度も触れる。その光也の、指先や爪の形や手の甲の筋の一つ一つまでもが鮮明に思い描けるほど、切なくて痛い。
「仁、どうかしたのか?」
 掛けられる声があまりにも優しいから、胸の奥がキュウと締め付けられるようだ。目を閉じて自分の胸で味わう光也の心臓の拍動が同じリズムであることを確信すると少しだけ安堵する。そして気付かれないようにほんの一瞬、唇で光也の首筋に触れると僕は力を手放した。
「すまなかった」
 と聞こえないように呟いて一歩、そして一歩と距離を取る。
 僕の動きを、言葉の真意を一つでも漏らすまいと目を逸らさない光也の潔さがうらやましくもあり、妬ましくもある。どうしてそれほどまでに己の気持ちに真っ直ぐにあり続けることが出来るのだと、光也の真っ黒な眼球に映されることの罪悪感と背徳感。
 たまらなくばつが悪くて、光也の顔が見れぬまま後ろを振り向くと、ベッドの横のサイドテーブルから水差しごと水を飲んでやった。口から溢れているがそんなことはかまやしない。最後を飲み干そうと勢いよく息を吸ったときに思いっきり光也が飛びついてきて、陶器の水差しがきれいなペルシャ絨毯の上に鈍い音と共に転がった。
「おまえ、ばかじゃねえの!ほんとばかだよ」
 あまりの勢いに体重を支えきれず、二人でむちゃくちゃになってベッドに倒れこむ。西洋のグースから取られたのだと言う上等な布団は、二人分の重みを受けるとグッと沈み込んでスプリングのきしむ音が背中越しに伝わった。驚いたのと衝撃で思わず閉じてしまった目をそっと開けると見慣れた天井がぼやけて見えた。
 拳で胸を一つ叩かれて、知る。

「みつ、お前泣いているのか?」
「違う!」
 左半分の体にかかる重みと、首に回された光也の腕。腕に浮かぶ血管と薄っすらと滲む静脈の青色。そこにあるという存在感は圧倒的な意味を持って僕に襲い掛かる。
「お前、何にもわかってねえよ」
 僕の肩に額を押し付けて、少しだけ震えた光也の声が耳に直接届く。知らぬ間に強張っていた体の硬直を解き、僕はだらりとベッドに体を横たえて、静かに息を震わせる光也を受け止めることしか出来ない。
 そっと目を閉じると、泣いている顔が浮かんだ。
 持てる力の全てで抱きしめようかとも考えたけれど、腕は鉛のように重くシーツに縫いとめられたかのようにピクリとも動かない。
 次第にリズムを持って耳の側で聞こえ始めた呼吸の音に、涙が出るほど安堵し暖かい気持ちが胸を満たす。
 ああ、これが、と世界中にこの満ち足りた気持ちを叫びたいと思ったけれど、今はこいつの声が聞きたくて、大きく息を吸い、どうやったら声が聞けるのかを真剣に考えた。

Golden Days|201103|written by Chihiro Saito