わたしは言葉を知らぬ子で
濡れたタオルを腫れた頬に押し付けられて、古泉一樹は呻いた。手当てにしちゃ、いささか乱暴な手つきだ、と古泉は思った。やめてくれと言っても黙殺されるし、暴れようにも身体に力が入らない。
既に疲労は限界のレベルにあった。
今日の神人の暴れっぷりといったらなかった。怪我人も少なくない。古泉もそのうちのひとりだ。
定まらない視界の向こうに、怒っているような困っているような、ともすれば泣いているようにも見えなくもないそんな複雑な表情をしているキョンがいる。への字にきゅっと結ばれた口元だけは、先ほど部室で見た彼のまま。
不覚だったな、と古泉は思った。こんなふうに弱っているところを彼に見られるのは、古泉の本意ではない。神人を狩って、閉鎖空間から帰還して、へとへとになって学び舎の屋上で休んでいた。そこを彼に踏み込まれた。不覚だった。
朦朧とする意識のなか、古泉? と、強張った彼の声に古泉は震え、遠ざかってゆくきゅっきゅという上履き独特の靴音にさみしさを覚え、そうして戻ってきた靴音に心底安堵した。押し付けられた濡れタオルには驚いたが。
「痛むか?」
痛むよな、とキョンは自答している。古泉は少し笑った。キョンが用意してくれた濡れタオルに頬を自ら寄せる。ひんやりとして心地よかった。
弱々しい声で名前を呼べば、しゃべるな、とぴしゃりとはね付けられた。思わず俯く。部室での、キョンの険しい横顔を思い出すと、彼の顔を見るのが途端に怖くなった。
それでも、伝えなきゃいけないことがある。伝えたいことが、ある。古泉はのどを震わせながら口を開いた。
「侮辱したわけではないんです」
「しゃべるな、と言っている」
低く、頑なな声音に、全身が冷えてゆく。反対に、目の芯だけが熱かった。
「ほんとうに、そんな、つもりはなかった」
わかってる、とキョンは言った。それから、悪かったな古泉、と言った。
古泉が反射的に顔をあげれば、キョンはは感情がごちゃまぜになった顔をしていた。
「おまえも頑張ってるんだよな。おまえの、なかまも、戦ってる」
言葉はいくらでも口からこぼれ落ちてゆくのに、古泉はいつだって本当に伝えたいことを言葉にできない。世界は言葉であふれかえっているのに、自分の感情だけがうまく伝えられない。
そして、キョンはいつもいつも右から左へと古泉の長い話を聞き流すくせに、古泉が必死で紡いだ大切な気持ちだけはちゃんと拾い上げてくれる。ひとつひとつ、余すところなく、丁寧に拾っていってくれる。
たまらない、と古泉は思った。
たまらない。
目尻からこぼれた涙は、濡れたタオルと同化した。
キョンのひとことに激昂する涼宮ハルヒを前にしても、キョンは椅子に座ったままちっとも動じた様子がなかった。それを横で見ていた古泉は、キョンは涼宮ハルヒを怒らせると知っていて、そのひとことを言ってのけたのだと知った。部室を飛び出していった涼宮ハルヒを追いかけようとした古泉に、キョンは 「放っておけ」 と言った。一応長門有希にも釘をさしていた。
「あいつもそろそろ世界が自分の思い通りにならんことを学ぶべきだ」
キョンはそうひとりごちて嘆息をした。
「世界を思い通りにさせてしまえるのが涼宮さんでしょう」
そう言った古泉に、キョンは顔を向けた。キョンは少し驚いているようだった。古泉の声音の微妙な温度の変化を察したらしい。
と、長門有希が本から顔をあげたのと、古泉の携帯電話が鳴ったのは、ほぼ同時だった。嫌な予感がする。メインディスプレイを見れば、発信元は案の定、機関だった。古泉のなかでむくっと苛立ちにとても近い感情が立ち上がってくるのを、彼は自分で充分に意識していた。
簡単な報告と命令だけを受けて、古泉は二つ折りの携帯電話をパタンと閉じる。そしてキョンに向き直った。
「閉鎖空間か?」
「お察しの通りです。しかも大規模な」
キョンは眉を寄せて、嘆息を深くした。
「原因はおわかりですね?」
言いながら、嫌味っぽいな、と古泉は思った。
「神人狩りはおまかせください。その代わり、あなたは――」
「あいつに謝れって?」
古泉は言葉なく、肯いてみせた。
キョンの顔が不本意そうに歪む。
「力があるのに、それを使わないのは罪なことです。あなたも」
古泉一樹はつとめて静かな声を意識した。意識しなければ、怒鳴り散らしてしまいそうだったからだ。
「俺のどこに力がある。おまえ、言ってたじゃねえか。あなたは間違いなく一般人ですってな」
「本気でおっしゃってるんですか? 涼宮ハルヒにとってあなたがどんなに特別か知らないあなたではないでしょうに」
携帯電話を片手に古泉は笑顔で怒っていた。しかし、目の前の彼は古泉以上に腹を立てていたらしい。眉間の皺は彼のデフォルトであってして、ちっとも特別なことじゃない。への字の口元も、やる気のない脱力加減も、それでも彼は――キョンは古泉以上に怒っていた。たぶん、本気で。
「侮辱だな、古泉」
声は低かった。キョンの言葉の意味を掴みそこねた古泉は眉をひそめた。キョンは古泉を見つめて、視線を外さなかった。そして、古泉も。
長門有希が本から顔をあげたまま、キョンと古泉の姿をその硬質な瞳のなかにおさめていた。
「おまえは、おまえの所属する機関とやらは、人を人とも思わんのか。どこまで人を侮辱したら気が済むんだ」
「おっしゃっている意味がわかりかねます」
「俺をなんだと思ってる、と言っている」
キョンが椅子から立ち上がる。古泉は座ったまま動けなかった。
「ハルヒと俺をなんだと思ってる。人を、人間を、俺たちを、侮辱すんなよ」
そうしてキョンは部屋を出て行った。垣間見た彼の横顔は、誰がどう見ても怒っていた。への字に結ばれた口元が、震えているようにも見えた。
「ハルヒが何者だろうが、俺とハルヒの関係がどうこうなるってのはねえだろう。俺はあいつのパシリにはなっても、支配なんかされねえし、あいつも神だっつったって、ここで生きている限り人と人の付き合い方くらいちゃんとわかってなきゃいけねえだろうよ」
遠く、チャイムの音がする。5限の終わりを告げる音だ。授業、サボってしまったのか、と古泉は思った。
「涼宮さんは変わりましたよ。とても、とても」
「うん、そうだな。俺もそう思う」
でもなあ、とキョンは言う。
「まだまだ一般レベルには達してないな。長門もおまえも、あいつにはあまいからなあ。朝比奈さんもそうだった」
「あなたも、たいがい」
キョンは苦笑した。つられて、古泉も表情を緩めた。
濡れたタオルを古泉の頬に押し付けているキョンの手に、古泉はそっと指を添えた。キョンは少しだけ顔をしかめた。気色悪いな、と目で訴えてくる。古泉はいつもの毒にも薬にもならない笑顔をつくろうと努力した。
「……ここ数週間、閉鎖空間がよく出現していて」
「悪かったな」
おまえも大変だったな、とキョンは言った。
「こんな傷作らせちまって、悪かった」
古泉は頭(かぶり)を振った。
「……最近、あなたが、涼宮さんにきつくあたる理由が、わからないわけではなかったんです」
「うん」
キョンは空を仰いで、うん、と繰り返した。
「俺だっていつまでもあいつの傍にいられるわけじゃないし」
キョンのつぶやきにも似た声が、空に吸い込まれてゆく。
冬に向かって、空がますます高くなってゆく。風はこの一週間で、随分と冷たくなり、キョンや古泉の三年生は受験体制に本格的に突入した。結局、部活に昇格することどころか、同好会としても非公認のままだったSOS団も解散が近い。別れの日を意識した途端に、月日が経つのが一気に早くなった気がする。さみしい、なんて実際に口に出して言うような人間は、このSOS団にはいないけれど、でもみんなが時間さえあればこの部室にたまっていることが多くなった。朝も昼も放課後も、あの部屋で。
先のことなんてわからない。卒業したって、完全に縁が切れるわけじゃなし。
でも、今までのようにはいかないだろう。何も変わらないままではいられない。
今のままでいようとするなんて無茶だ、とキョンがハルヒに言って怒らせたひとことは、古泉にも堪えた。
古泉は目を伏せて、息を吐いた。
「すみませんでした」
「いや、俺も悪かった。そうだよなあ、おまえも、おまえの同業者も、大変だったよな」
ハルヒが苛立てば、それだけ神人が暴れる。神人が暴れりゃ、古泉たちが働かなきゃいけない。そこに伴う危険を、キョンはすっかり失念していた。古泉をスーパーマンだと頭のどこかで勘違いしていた。屋上で倒れこんでいた古泉を見て、全身から血の気がひいた。自分がとんでもないことをしでかしていたと気づいた。悪かった、と思う。ほんとうに、悪かったと。
そりゃあ、こんだけ扱き使われればさすがの古泉も怒るわなあ、とキョンは思う。
「そんなこと、ありません。僕は僕のやるべきことをしたまでで」
「そんな傷をこさえて、よく言う」
「僕の力は使うためにあるんですから」
言葉ひとつひとつに力を込めて、古泉は言った。
キョンが空から視線を古泉に落とす。
「おまえ、強いのな」
「強かったら、こんな怪我してません」
「おまえがそんなぼろぼろになってんの、はじめて見た」
「見せないようにつとめてましたので」
「へえ」
「男ですから。カッコつけたいんです」
「ほう」
「だから、あなたがうらやましくある」
「どうして」
「男だから」
「意味がわからん」
キョンは渋茶を飲んだような顔をして、古泉を見下ろした。
「男って力持つ、強いものには憧れるものでしょう?」
古泉が言えば、キョンは半目で古泉を睨んだ。
「おまえの言う俺の力とやらはな、力なんかじゃねえよ。おまえの超能力とは違う。ぜったいに」
「わかります」
わかっているのだ。古泉は心のうちでつぶやく。
古泉が“力”と呼んだ、ハルヒとキョンを繋ぐ絶対的なもののを正体を、本来なんと称したらよいのか。
キョンなら自分を裏切らないと心底信じている涼宮ハルヒ。キョンもキョンで、ハルヒは自分の言うことにちゃんと耳を傾けてくれると信じているから、ハルヒが怒ろうが暴れようが喚こうが泣こうが、何度だって諭す。自分が間違っていない限り、簡単には頭を下げないが、根気よく、懇々と、ハルヒに付き合う。
変わらないものなんて何もない。別れもお終いもいつかやってくる。今、キョンはそれをハルヒにわからせてやろうとしている。ハルヒもわかる日が近いだろう。何千回、何万回と繰り返したいつかの夏休みのような事態には、もう陥らないだろう。
友情と言うには濃すぎる。恋人ではない。家族でもない。でも絶対的な信頼が彼らを繋いでいる。そしてキョンはそれを他者にいたずらに害されることを嫌う。たとえば、それは機関であったり。だから、古泉の不用意なひとことにキョンは本気で怒った。自分たちの関係を道具のように言うな、と怒った。
そこまでしてキョンが大切にするふたりの関係に、嫉妬していたなんて古泉は言えない。怪我なんて、疲労なんて、些細なことだ。古泉を乱し、苛立たせたのは、目の前のふたりだった。
大切にしたいと。好きだと。彼らといっしょにいることができるこの世界を守りたいと思えるのに、嫉妬が古泉を蝕む。こんなこと、口が裂けたって言えやしない。
言えないけれど、キョンは古泉のところに駆けつけてくれた。古泉の傷を見て、顔を歪ませてくれていた。古泉の話を、声を、聴いてくれた。そうして今、頭を撫ぜてくれる。それが涙がでるほどうれしい。
きっと、今はここにいない涼宮ハルヒも、古泉のこの傷を見たら、それはもう心配してくれるのだ。ハルヒは、放課後、部室に顔を出した古泉に早退命令を下すだろう。キョンに古泉を家まで送ってやるように言うだろう。そして、面倒くさそうなキョンをハルヒは一括する。キョンは嫌な顔をしながらも結局は古泉を家まで送ってくれる。
そんなふうに、鮮明な映像を見るように、これから数時間後に起きる事が想像できてしまう。
「古泉?」
タオルに顔を押し付けて、古泉は身体を丸めた。気遣わしげに背中をさすってくれるキョンの掌に、涙がとまらなかった。
たまらない、と古泉は思う。
たまらなく、あたたかで、やさしい日常がある。
好きです。大好きです。大切なんです。守りたいんです。ずっと、ずっと、一緒にいたいんです。
いつか、ごてごての装飾をとっぱらった言葉で伝えられたらいいなと思う。できれば、この高校を卒業してしまう前までに。
ハルヒ|title by でんでん虫|071109