勝手知ったる他人のなんたら。酷い顔をした家主である俺を無理やり座らせて、古泉一樹は俺の家のキッチンで俺の薬缶を火にかけた。
「だいじょうぶですから。だからあなたはゆっくりしていて」
そう言われても、どうゆっくり寛げと。客人に働かせて、俺は何をしている。何をしているんだ。人前でぼろぼろと泣いてしまった気まずさも相まって、俺はどうにかして穴に入ってしまいたい気持ちだった。そこの布団に頭でも突っ込んでいようかね。ああ!
アルコールによるほろ酔い気分は消え去り、身体に気だるさだけが残る。全身が重い。だるい。
身も心も悶々としている俺を放って、古泉はこいつにしては驚くほどの手際の良さで熱い日本茶を淹れて、俺の前と自分の前に湯のみをひとつずつ置いた。
ちゃぶだいの上、ふたりの間に、久しぶりにオセロのボードを広げる。帰り道のコンビニで古泉が買った携帯用のミニボード型のオセロだ。
ボードの真ん中に黒と白の駒を二つずつ置いて、よろしくおねがいします、と互いに頭を下げあう。こういうゲームははじめの挨拶が肝心なんだ。
しかし、苦いな、この日本茶。おまえ、熱湯で淹れただろう。
「何か問題が?」
「お茶は80度より少し高めで淹れるほうが苦味が出ないって言わないか」
「すみません。僕はどうもそういう方面のことに疎いもので」
知っている。この男ときたら、ふだんは生きていくうえで何の役にも立たなさそうなマニアックな知識を華麗に披露してくれるくせに、こういうおばあちゃんの豆知識的なことはなーんも知らんのだ。知らんうえに、何も出来ない。
高校時代、こいつのことを機用に立ち回る男だと思っていたが、いったいあれは何だったんだ。幻影か?
このひと月でおまえの生活能力の乏しさに俺は呆れかえったものだ。洗濯物ひとつろくにたためず、料理なんぞ出来るはずもなく、掃除能力は皆無。おまえ今までいったいどんな生活をしていたんだよ、と何度聞いたか知れない。ひとりぐらしの男の家に週に3日以上まめまめしく通い詰めておきながら、こいつは食料の差し入れをするのがせいぜいで、あとは俺の部屋をとっちらかすことにだけは長けていた。俺は、おまえの部屋を想像するだけで怖気に襲われるよ、古泉。
「そんなに苦いですか?」
俺はお茶をすすりながら、それこそ苦虫を噛んでしまったかのような顔をしていたんだろう。苦いけど、まあ、苦いけど。でも、こんな顔になったのは、こいつの部屋の惨劇を想像したからであって。お茶のせいというわけではなく……。
「淹れなおしてきましょうか」
「――いい」
あとで自分でやる。とりあえず今は、このオセロを――。
ぱちりと俺が黒の陣地を広げる。
「ふふ、懐かしい」
次は白が広がる。
「たった半年ぶりだろう」
黒。
「もう半年、です。正確には7ヶ月です」
白。
「おまえが勝手に消えたんだ」
卒業式のあと、おまえのほうが何も言わずに消えちまったんじゃないか。
「心配してくれましたか」
「どうかな」
どうかな、実はそんな心配はしていなかった。おまえのことだ、と思って、それなりにやっていると想像していたからな。今となっては生活能力が皆無のこいつを知ってしまったので、この半年間、おまえがいったいどんな生活をしてきたのか、と考えただけでとてもとても心配でたまらなくなったのだが。
「僕は、いつもあなたのことを考えていました」
「どうせ俺のことなんておまえには筒抜けだったんだろう。機関の諜報部とやらのおかげで」
「データと、実物のあなたは違います。データにはぬくもりがありません」
しゃあしゃあと古いドラマの男優のようにロマンチックなことを言う。
「会いたかった」
「ちゃんと会いに来たじゃねえか」
飛び込んできたじゃねえか、古泉。泣きながら、鼻水垂らして。
「すきです。だいすきです」
だから人がお茶をすすっているときに、そういうことは言うな。
そしてドサクサ紛れに俺の手に指を這わすな。
ぺいと古泉の手を払って、俺は自分の陣地を広げた。古泉は笑顔で次の手を考える素振りを見せる。
健康な男がふたり、真夜中に苦い日本茶をすすりながら、オセロに励む。涙が出るほどかわいらしい光景だ。
低い天井を見上げる。やっぱりここは文芸部室じゃねえんだよなあ、と冷静になった頭で、至極当たり前のことを考える。思い出は、やっぱり思い出でしかなく。時間は、本来、遡るべきものではなく。
対局する古泉はじっと盤面を見ている。古泉のおとこのくせにうつくしい指先が、小さなオセロの駒を抓む。黒い駒が白に変わってゆく。ぱちり、ぱちり。
苦い、古泉のお茶を飲み干して、俺は深呼吸する。
「おまえ、どうすんの」
「どうするの、とは?」
「今夜、帰るの、帰んねえの」
とはいえ、もう時計は12時を回ってるんだけどな。
古泉の目が一瞬大きく開いた。一瞬、な。
このひと月の間に、古泉は幾度となく俺の部屋に通い、そして俺はそれを何故か拒否せず、しかし俺たちは健全に、実に健全に過ごしてきたのだ。俺にそんな気はなかったし、古泉はきっと我慢してたんだろうよ。古泉がこの部屋に泊まったのだって、最初のあの日――古泉が半年ぶりに俺の前に現れたあの日だ――だけだ。もちろんあの日だって、俺たちは全うな夜を過ごしただけで。
でも、なあ、いい加減に結論を出してあげなきゃいけなんだろう。俺が欲しい、と言って俺にしがみついてきた古泉は、そろそろ限界だろ。必死に我慢してるみたいだけど。
やさしいのな、おまえ。
知らなかった。おまえは、やさしい男。
できれば、俺もおまえにやさしくありたい。そう思う。そう思えた、今。
ハルヒをめいっぱいに甘やかしてやりたいと思う気持ちとはまったく別物のこの感情を、世間ではなんと呼ぶか。名前くらいは、俺だって知っている。
――なんだよ、おまえ、なんでそんな顔してんの。酔ってるんですか? だと?
ふざけんなよ、てめえ。
酔いなんかとっくに醒め切って――は、いないかもしれんが、俺は本気だぞ。
おい逃げるな、古泉。ちょっとこっちに来い。あーあーオセロもめちゃくちゃだ。
「こいずみいつき!!」
「うあ、あ、あっ!」
「好きなんだろう、俺のことがっ!」
だいすきなんだろうがっ!
じったばった暴れる古泉を押さえつけて――……、俺は押さえつけるだけ。
「あ、あの? え、えっと? キョンくん?」
うるさいよ。キョンくん言うな。で、この後、どうしたらいいかなんて、俺は知らん。知らんのだ。どうすりゃいいんだ、古泉。
星の海から駆けてゆくB 20071021