古泉一樹は洒落たジャケットのポケットに両手を突っ込んで、突っ立ったまま。冷たい夜風が吹き抜けてゆこうとも、野良猫が訝しげな視線を俺たちに寄越しながら横を通ってゆこうとも、ぴくりとも動かない古泉の首筋を、俺は注視していた。
首が寒々しいな、古泉。
とはいえ、その古泉の愛用のマフラーを拝借しているのは俺なのだが。いやいや、俺がこいつからこのマフラーを奪ったわけじゃない。俺は涼宮さんちのハルヒさんみたいな傍若無人な真似はしない。パーカーとスウェットにサンダルという俺を見かねて、マフラーを巻きつけてきたのは古泉のほうだ。
ぴゅっと吹く風は容赦という言葉を知らない。いよいよ本格的に冬到来だ。古泉のぬくもりが残るマフラーに顎を埋めながら、俺は考える。さて、このマフラーを返すべきか否か。
古泉の右手がポケットから抜け出て、出来すぎた彫刻のように形のよい右手は、ミケランジェロも真っ青な綺麗なその顔を覆った。
――阿呆か、古泉。綺麗な顔は隠しちゃいかん。美しいものは晒していてこそ価値が出る。だから俺は真夏の海が好きなのだ。ビキニ姿の女の子たちのあの神々しいこと。早く夏よ、来い。駆け足で、さあ、早く。
「あなたって人は」
古泉は言いかけて結局口を噤んだ。街頭の下、古泉の嫌味なくらいに長い肢の長い影を、俺は目で追う。
猫が、一匹。さっきから俺たちをじぃっと見ている。興味深げに。訝しげに。
そうだろう、おかしいだろう、俺たち。若い男と男がふたり、付かず離れず微妙な距離をとりあって突っ立ているのだ。
「俺って人間がどうした」
「すみません」
何故に謝る。
「すみません」
くぐもった声は内に秘めた感情をあやふやにさせる。顔が見えん。手が邪魔だ。ええい、鬱陶しい。
「古泉、言いたいことがあるんなら言え」
右手を掴めば、往生際の悪い男は今度は左手で顔を覆った。まったくもって往生際の悪い。本当に、悪すぎる。今度は左手を取って。……前髪も邪魔だな。男らしく切ってしまえ。高校野球児たちを見てみろ。あんなに気持ちのよい坊主じゃねえか。おまえも見習え。
「厭ですよ」
「じゃあその面を見せてみろ」
俺を不快にすることに長けたその整った顔を、見せろってんだ。額で額を小突いて、無理やり顔をあげさせる。おい、なんでそこで視線を伏せる。いつもはこちらが厭だといっても、しつこく喰いついてくるような男が。
額と額を寄せて、古泉の顔を覗き込む。しかし、まあ、おまえ、ほんと綺麗な顔をしてるな。つくづく腹立たしい。
「熱い」
熱に浮かされたような声で古泉がぽとりと言葉を落とす。熱い? 熱いって、何が。
「あなたの額と、手が」
そうかな。握り締めた手はきんきんに冷え切っていた。おまえのはいつも冷たい。
「あなた、お酒を飲みましたね」
咎めるような声に、俺はひょいと肩をすくめる。
「ほんの少しだよ」
恐妻の目を盗んでこっそりと秘蔵の酒を飲んだところを見つかってしまった夫のような心境だ。なんで俺がこんな心境に陥らなきゃいけない。そして古泉、おまえもどうしてそんなおっかない顔をして俺を見るんだ。
「さけくさい」
言いながら、古泉が俺に唇を寄せてくる。言ってることとやってることがめちゃくちゃだぜ、古泉。臭いといいながら、キスなんてする奴があるか。
啄ばむようなキスだ。キスだぞ。男の俺が、男の古泉とキスしてるんだ。夜でよかった。人気のない住宅街でよかった。猫の気配はまだするけど、シャミセンのようなおしゃべり猫はたぶんいないだろうよ。
唇が離れる。古泉は小首を傾げてみせた。ちっとも抵抗しない俺が不思議でならなかったらしい。
「どうしたんです?」
「酒のせいだ」
ハルヒと飲んだ、泡盛のせいだ。くそう。俺が、この俺が、男なんぞの唇を甘んじて受け入れて。しかも身体がかっかと熱くなってきてやがる。
「酒のせいだ、古泉」
「顔が赤い。泣きそうな顔をしてます」
「そりゃお前のことだろうよ」
古泉が俺の手を解いて、俺を抱き寄せる。マフラーを退けて、古泉は俺の首筋に鼻を押し付ける。ぐいぐいと。なんだよ、おまえ、どうした。俺は俺で古泉の背中に腕を回して――俺も、どうした。とうとう頭がいかれたか。
「花の香りが」
「ああ」
ハルヒの香水だな。結局あいつをおぶさって駅まで送ってやったから。匂いが移ったんだろうよ。
「嫉妬で気が狂(ちが)ってしまいそう」
「どんだけだよ、おまえ」
「キョ……ンくん」
「安心しろ。お前の頭んなかはもう充分狂ってら。今更だ、ほんと、今更だ。つかキョンくん言うな」
「先ほど、あなたの家に向かう途中、あなたと、彼女を見かけました。あなたは千鳥足で、彼女をおぶさって。彼女はあなたの頬に頬を寄せて……」
俺は嘆息する。
あのな、見かけたのならその場で声をかけろよ、声を。おまえって奴は俺がハルヒを背中から降ろして、改札口でばいばいするところまで、見てたのか。そんでひとりでのんびり夜道を歩いている俺に何食わぬ顔で声をかけてきたのか。
「怒りますか?」
「そうだな、ハルヒもお前に会えたら喜んだだろうに、とは思う」
「喜んでくれたでしょうか」
何を馬鹿な。俺は古泉の髪をぎゅっと引っ張ってやった。元気な毛根がさらに腹立たしい。痛い痛いと顔をしかめる古泉の額に頭突きをひとつ喰らわせて。ちくしょう、俺も痛ぇ。
「殴るぞ、古泉」
頭を抱えて蹲る古泉を睨みつける。
「も、もう、頭突きしてるじゃないですか、あなた」
「俺は、俺は、珍しくも本気の本気で怒ってるぞ、古泉。俺は今、本当に腹がたってしかたねえ。おまえのそのしけた面が鬱陶しくてしかたないな」
「ひどい」
ひどいもんか。酷いものか。誰が酷い。誰が、一番酷い?
「古泉、ハルヒはおまえに会えたら喜んだよ。きっと、いや、絶対だ。おまえはそうは思わんのか」
俯いた古泉は黙秘を通す。余計なおしゃべりはするくせに、この男ときたら、自分語りが大の苦手なのだ。
疲れた。どっと疲れた。怒ると何がいやだって、疲れることだ。俺は早々に怒ることを放棄した。夜空を仰いで、星座を探す。冬の空は星が見つけやすい。星の光ってのはどうしてこうも人を癒してくれるのかな。
俺はちょっとばっかしやさしい気持ちになって、古泉に諭すように言った。
「なあ、古泉。おまえは嬉しくないか、あいつの顔を見て、嬉しくなかったか」
沈黙は続く。お、オリオンの三つ子星をみっけ。
「さみしいこと考えんなよ、こいずみ」
お前って奴はそんなんだから、友達が少ないんだ。
「僕は!」
見下ろすと、古泉一樹が俺を睨んでいた。また泣きそうになってら。なんだよおまえ。高校時代にはいつもへらへら笑っていたくせに。なんだって、今のおまえは泣いてばかりいるんだ。
「僕は?」
「僕は」
「僕は、何だ」
「あなたは知らないんだ」
「何を」
「あなたの背中で彼女がどんな顔をしていたのか、知らないんだ。知りもしない。知ろうともせず、そのくせあの場で僕に声をかけろという」
「古泉」
「彼女の気持ちも、僕の気持ちも考えないで」
残酷だ、と古泉は言った。あなたは、残酷だ。残酷だ。
やめろよ、そういうの。俺は、別に、何を望んでいたわけでもない。そんな気持ちを望んでいたわけじゃあないんだよ、本当に。
酷いのは誰だ。一等酷いのは。ハルヒか、古泉か、それとも、俺か。
「僕は」
「僕は、なんだ。その続きを言ってしまえ」
古泉は顔を一層歪めた。
「本当に、あなたという人は、酷いんだ」
「そうだな、うん。俺って奴はけっこうな人でなしらしい」
僕は、の続きを俺は知っている。知っていて、あえてそれをこいつに吐き出させて。そのくせそれを受け止めるだけの覚悟も持ち合わせちゃいない。
でもちゃんと小出しにさせないと、古泉一樹ってやつはプツンしたときに意外と何をしだすかわからないんだよ。たとえば、いきなり行方を眩ませたり。たとえば、いきなり俺の前に現れて、俺を押し倒したり。
なあ、酷いのは、誰だ。一等、酷いのは。
「僕は、あなたが、欲しい」
唇をぎゅっと噛み締めて、それでも古泉は俺を見つめる。むかし、むかし、俺がまだランドセルを背負っていた頃に橋のしたで見つけた捨て犬を髣髴とさせる、そんな古泉の顔なのに、瞳だけはぎらぎらと貪欲に光る。こいつでもこういう目をするんだよなあ、と俺はぼんやりと考える。
それにしてもおまえは物好きだ。その顔さえあれば、どんな女の子だって思いのまま、簡単に釣上げられるだろうに。
「僕は、ただ、それだけを」
なんでよりによって俺なのかね。
「好きですあなたが。すきですすきです」
イエスと答えてやらなきゃ死んでやる。そう言われてるみたいだ。
ひと月前の、あの日。好きだ好きだと泣きながら俺に縋ってきたこいつを思い出す。高校卒業後、半年以上も全くの音沙汰のなかったこいつは、あの日、俺の部屋に切羽詰ったように押しかけてきて、俺の唇を奪って、俺を押し倒して、そうしてただただこどものように泣きじゃくった。すきですすきですすきです。馬鹿のひとつ覚えのように、こいつはそればかり繰り返して。
なんかもう色々と堪らなくなるから泣くのだけはやめてくれな。な、古泉。泣くな。頼むから。
「あなたが、欲しい。欲しいんです」
どうしたものかわからなくってとりあえず腕を広げれば、古泉はもう迷うことなくしがみついてきた。古泉のすすり泣く背中を撫ぜる。下っ腹に押し付けられたこいつの欲望に俺はほとほと困る。厭じゃないから、余計に困る。
瞼をきつく閉じて、熱い息を吐く。身体が熱いのは、きっとアルコールのせいなわけではなく。
「僕を選んでください」
なんかすごいことをのたまい出した。
とりあえず落ち着けな。落ち着け、な。背中をぽんぽんとさすってやる。
俺は必死におとなのふりをする。気楽な傍観者のふりをする。冷静なふりをする。喚くこいつやハルヒを置いて。
俺はいつだって端役、或いは舞台裏のしがないスタッフでいい。監督も、宇宙人役も、未来人も、超能力者も、俺は望まない。俺はただ、変り種に囲まれているだけでいい。
「古泉、俺はなあ」
古泉、俺のあの狭い1Kの存在意義を考えたことがあるか。どうして俺が自宅通学可能な大学に籍を置きながら、わざわざ家を出てアパートを借りたのか、考えたことがあるか。
「僕を、選んでください」
たとえば、俺がおまえを選んだとして。
「あなたのさみしさは僕が埋めるから。きっと、きっと埋めてみせます」
駅の自動改札機を挟んで。向かい合ったハルヒの顔を思い出す。俺の背中から降りたあいつはもう、よく知ったあいつだった。不遜で不敵な笑顔は思い出の中そのままに。
また遊びにきてあげるわよ。たったその一言を残して。
その一言に、俺がいったいどれだけ救われたことか。
「だから、選んで」
「古泉、俺は、かえりたいんだよ」
狭い部屋。薄い壁。汚い床。薄汚れた上履きで歩き回る。テーブルゲームが乱雑に入れられた立て付けの悪いロッカー。小難しい本のぎっしりと詰まった本棚。豪快な文字が描かれたホワイトボード。コスプレの衣装。お茶のセット。それぞれの湯のみ。
がらくたばかりの、小さな、小さな、あの部屋に、俺は還りたい。さみしさを埋めるとか埋めないとか、そういう話ではなく、俺はただ還りたい。
「無理です」
おまえもなかなかキツイなあ、おい。
「あなたのアパートは、決してあの部室にはなりえない」
「ああ」
眦に寄せられた古泉の唇で、俺はようやっと自分が泣いていたことに気づいた。
泣かないでください。泣かないでください。繰り返す古泉も眉が八の字の情けない顔をしていて。
盛った身体ばかりが感情を置き去りにして火照る。それが虚しい。
にゃおん、と猫が退屈そうに欠伸をして、闇のなかに消えてゆく。空を見上げれば、オリオンの三つ子が滲んでいた。
星の海から駆けてゆくA 20071017