「夏だ」
 いったいいつの間に。
 キャンパスの中庭の一角に設けられたベンチに浅く腰掛けていたキョンは、半ば呆然としながら、ひとりごちた。
 嗚呼、夏だ。蝉の鳴き声が聞こえるにはまだ早い。しかし鼻腔を擽るこのニオイは、たしかに夏のそれだ。
 劇的に変化した新しい環境のなか、やっと自分なりに落ち着ける場所を見つけたところで、ふと気づくことがある。
 今は、夏。キョンはそんなことに今更気づいたのだった。
 ずるずると力が抜けていく背中を、ベンチの背凭れに預ける。だらしなく投げ出された足の先、白いスニーカーに木漏れ日がちかちかと光っているのが、目に染みた。夏の日差しだった。
 ベンチに腰掛けたまま、気だるげに空を仰ぐ。えらく眩しかったけれど、キョンはこの眩しい日差しが決して嫌いではなかった。むしろ冬の寒々しさよりもずっと好ましいものと思っていた。
 ――そうですよ。あなたが大好きな夏ですよ。
 ぎょっと眼(まなこ)を見開いて、キョンはベンチから立ち上がった。きょろきょろと落ち着きなくあたりを見回す。右も左も、前も後も、そして空も地面も。あきらかに挙動の不審なキョンを遠巻きに眺める複数の視線に気づいてはじめて、キョンは我に返った。場を誤魔化すように咳払いをしつつ、ベンチに腰掛けなおす。今度は足を投げ出したりなんぞせず、背筋を伸ばして座った。
 徐に、指を耳の穴に突っ込んでみる。うん、きれいだ。なにせ耳掃除は毎日やっている。
 今度は目をこすってみる。そういや、視力が落ちた気がするな、と思った。パソコンばかり見ているからかもしれない。いや、でも、そうだからといって、ここにいるはずがない人間の姿が見える理由にはならんだろう。
(そうだ、ここにヤツはいないはずだぞ)
 改めてまわりをじっくりと見渡して、ヤツの姿がないことに妙な安堵を覚えた。
 溜め息をひとつ。そして、顔を掌で覆った。
 先ほど、木漏れ日の間から、幻聴が聞こえた。幻聴だ、間違いない。加えて、とびっきり人のよい風を装った笑顔までいっしょに見えた気がしたものだから、大いに焦った。幻聴のみならず幻覚まで見えるって、これはいったいどいうことだ。しかも、よりにもよって何故にヤツの声に、顔!?
(ありえん。ありえちゃ、いかん)
 そうやってキョンがうんうんと呻っているまさにそのタイミングで、ジーンズのケツポケットに無造作に突っ込んでいた携帯電話が鳴り出したものだから、キョンは心臓が止まるかと思うほど驚いた。考えなしに大きな奇声をあげて、途端に後悔する。まわりの訝しげな視線がいよいよ強くなったのを肌でひしひしと感じながら、着信ディスプレイを何気なく見やって、キョンは今度こそ完全に固まった。
 ――す、涼宮ハルヒ。いったい、こんなときに何の用……。
「……も、もしもし」
「遅い!」
 あたしの電話は最低2コール目で出なさい云々。ひと月ぶりの電話だというのに、久しぶりのたった一言の挨拶もない。涼宮ハルヒは変わらず涼宮ハルヒだった。
 ハルヒの元気な声に耳を傾けながら、キョンは頷く。息災に暮らしているようで何よりだ。
 不思議だった。こうしていると落ち着いてくるのが、自分でよくわかる。先ほどあんなに焦っていた自分が嘘のように、今は地に足がついている感じがする。携帯電話越しのハルヒの話は相も変わらず突拍子もないものばかりだというのに。
「おまえ、男って生き物をあんまりなめちゃいかんぞ」
「あっはっは! キョン、あんたが男を語るの! どーてーのくせに!」
「阿呆! おまえ、今どこにいるか知らんが、年頃の女がそんな言葉をでっかい声で話すんじゃない。――いいか、ハルヒ、兎に角だ、特に最近の若人はキレると何するかわからん。だから、おまえ、無茶もほどほどにしろよ。一応、自分の顔が上等な部類だってことを忘れるな」
 まるで、高校の部室でそうしていた頃のようにぽんぽんと軽やかに言葉をかわしあって、穏やかな気持ちのまま、そして、さあ電話を切りましょうか、と、そんな雰囲気になったときだった。
「そういえば、キョン」
「うん?」
 キョンは懐かしさに浸るあまり、すっかり失念していた。涼宮ハルヒは涼宮ハルヒだ。いつだって台風のようにキョンの平穏をぶち壊してくれるような女だった。
「古泉くんは元気?」
「……」
 それを、なんで、俺に、訊くんだ。
 空を仰ぐ。またしても、のほほんと笑うヤツの幻影を見た。
 元気かどうかなんて。
(――知りたいのは、俺も同じだ)
 忙しない春が過ぎ去って、ようやっと落ち着いたところで考えることはただひとつ。
「あいつ、生きてんのかね」
 幽霊のようにふらりと消えてしまった古泉一樹、あの男はいったい今頃何をしていることやら。


あの花の名前をおしえてあげる 080927初出