ハローまでさようなら



 満開の桜はまだオアズケな。涼宮ハルヒは、三分咲きの桜を見ながら、ぶうと頬と鼻の穴を膨らませてこの世の終わりのような絶望的な表情を覗かせたけれど、結局、来月のことを考えて納得したようで、桜を満開に咲かせるだなんてミラクルを犯すこともなく、おとなしくしていた。そうだよ、ちゃんと納得してくれな。
 長門有希も桜を見上げていた。きれい、といううくしい日本語を無表情で呟いて。なんだかな、ちょっと感動したんだぞ。
 俺はというと、いつものようにシャツを着て、いつものようにゆるくネクタイをしめて、よれよれの学生鞄を肩にかけ、履き潰したローファーをつっかけて――といった具合に、三年間続けてきた高校生活となんら変わらぬ装いで家を出ただけだ。
 卒業式だからって、特に改まることもしないまま。ただ、式典前の軽いホームルームで担任に渋い顔された手前、シャツをズボンのなかにしまい、ネクタイを首元まできっちりと締めはしたけれど。
 そして、古泉一樹は――。
 手渡したメモを古泉一樹は微かに震えた手先で広げていった。
 どうしたよおまえ。そんなすっ呆けた顔をしやがって。
「これ、は」
「住所だ」
 俺の。来月からの。
「どういう意味ですか」
「どういう意味もこういう意味もねえよ」
 どういう意味があるっていうんだ、古泉。妙な勘ぐりは止せ。おまえみたいに誰も彼もが、裏を持って行動しているわけじゃあるまいし。
 古泉、おまえが俺たちに自分の進路を最後まで明かさなかったことについては、俺たちは何も言わんよ。この3年間でSOS団が培ってきたものその程度のもんだとは思いたくないし、おまえだってさすがにそんな薄情なことは考えちゃいないだろうよ。ただ、この3年間のものを差し引いてでも、おまえにはおまえなりの俺たちに今後のことを明かしたくなかった、或いは明かせない 「理由」 があったんだろう。そういうことだろう。――なんてことは、俺の心のうちに留めて置くとして。
「ハルヒにも渡したし、長門にも渡した。朝比奈さんにも、な」
「朝比奈みくるにもですか」
 少し前にこっそりと自分の下駄箱のなかに忍ばせておいた手紙は、翌朝にはきちんと消えてなくなっていた。代わりに一週間後の今日、ピンク色の封筒が一通、俺の下駄箱のなかに。封筒のなかには 「おめでとう」 という几帳面な5文字が踊った便箋が入っていた。さて、この手紙から察するに、朝比奈みくるさんは俺の知らない時間で、元気にやっているらしい。
「おまえにも一応渡しておくわ」
 古泉は、何か言おうとして、結局口を閉ざした。へんなの、おまえ。
 おーい、と古泉を呼ぶ声がする。古泉の肩越しに手を振る集団がいた。こいつのクラスメイトか。古泉と同じくきっちりとネクタイを締めた連中は、なるほど、俺や谷口なんぞよりずっと頭の出来が良さそうだ。
 はて、こいつがあの連中と同じような進路をとったとは思えない。いったいどこに行くつもりなんだか。
「僕は」
「達者でな」
 遊びに来いと言っておきながら、今生の別れのような言い方になってしまったのは、俺自身、少しだけ、ほんの少しだけ腹が立っていたからだろうと思われる。古泉の下らないであろうご託を遮ってしまったのも、きっとそのせいだ。
 こいつにどんな理由やら事情があるかなんて俺にはさっぱりだが。俺は、少し怒っているんだよ、古泉。怒ってるんだ。
 こいつがそんな俺の心のうちを察しているのか否か、俺にはやはりさっぱりだが。俺は古泉一樹という男がよくわからんままだ。わからんまま3年間が過ぎてしまった。そして終わってしまった。
 タイミングよく、こーいーずーみー、とまた声がかかる。女の声も混じっている。きらきらと眩い美少女もいるじゃないか。きっと彼女は古泉一樹のことが好きなんだろうなあとか、そんなことを思う。色男が羨ましいねえ。
「じゃあな」
 動かない古泉に、俺は首を傾げる。
「古泉、呼んでるぞ」
 あっちに行かないのか。古泉はクラスメイトのほうをちらりとも振り返らず、俺の顔ばかりを見つめていた。古泉の瞳がゆらゆらと揺れて見える。なんだよ。
「あの」
「何だ」
 なんなんだよ。
「僕は」
 おーい、キョン、と今度は俺を呼ぶ声が。ふり返れば、国木田と谷口が手を振っていた。
「謝恩会、二次会! 移動するぞー!」
 卒業式、学年全体の謝恩会ときて、次はクラスごとの二次会。ああ、もうそんな時間か。
「さようなら」
 古泉が無駄にさわやかな声で言った。瞳はもう揺れちゃいなかった。
 今、俺はたぶんあまり気持ちの良い顔をしていないに違いない。眉間に、こう、うねうねと皺が寄っていたに違いないのだ。なーにが、さよなら、だ。「僕は」 なんだ、古泉、続きは言わんのか。
 おまえが何も言わないのなら、じゃあ、俺のほうからひとつ、ちょっとイイ話を。
「あのな、古泉、おまえがいつか言った例え話だ。おまえが超能力を失ったらっていう例えばの与太話」
 笑顔のままの古泉の顔が微妙に強張ったことに気づくのは、きっと俺くらいのもんだな。
「いいんじゃねえか、別に」
 あのときのおまえはまあ次から次へとぺらぺらぺらぺら喋っていたな。そして俺はその話の9割9分9厘を聞き流していたのだけれど。
「おまえの生活はそりゃあ色々変化するんだろうが、俺や、ハルヒや、皆にとっちゃそう変わんねえだろうよ。たとえばおまえが赤い玉に変身できなくなったとして、そんなもん超が10個くらいつく変な男が、超が9個つく変な男になるだけだ。ちょうちょうちょうちょうちょうちょうちょうちょうちょうちょうへんな男が、ちょうちょうちょうちょうちょうちょうちょうちょうちょうへんな男なるくらいの微々たる変化だ」
「僕はそんなに変な男でしたか?」
 古泉は微苦笑して肩をすくめた。
「そうだな、涼宮ハルヒに次ぐ、と言ってやってもいい」
 敢えて注釈をつけるなら、これは確固たる嫌味だぞ、古泉。
「神の次点とは、この上ない最高の賛辞です」
 ありがたくも畏れ多い、と古泉は言った。だから誉めてねぇというに。で、畏れ多いと慇懃に言っておきながら、おまえの顔は歪んでんのな。こいつは、俺がハルヒの話をすると顔を歪める。俺がそんな些細な変化に気づいたのは、いつだったっけ。こいつは、隠しているつもりなんだろうが。
 古泉にとって涼宮ハルヒがいかなる存在であるのか。
 そして、古泉にとって、俺がどんな存在であったのか。
 ――俺は、おまえのことが嫌いじゃなかったよ。
「達者でな、古泉」
 達者でな達者でな。爺むさい言葉で〆て、今度こそ俺は古泉一樹から離れた。振り返りもしなかった。
 これから、美少年超能力者がどこに行っちまうつもりなのか、俺は知らない。ただ、どこか遠くに行っちまうであろうことだけは、想像できたけどよ。俺はそれを引きとめようなんて無粋なことはしないよ。そこまでやさしくもなれない。今はまだ。
 まあ、一応、お互いに携帯の番号だって知ってるし、俺はあいつにひとり暮らし先のアパートの住所だって教えた。
 会おうと思えばきっと会える。
 問題は、会いたいと思うか否かって話。

ハルヒ|071015