ピーターパンだったこどもたちへ




「ちょいと野暮用」
 携帯電話を耳にあてたまま、古泉一樹は目玉をひんむいた。
「ちょ、ちょっと待ってください。や、野暮用って何なん……」
「まぁ心配すんな」
 慌てふためく古泉の追求を遮って、キョンは軽い調子でそういい残すと、電話を一方的に切ってしまった。それっきりキョンの携帯電話は何度かけ直しても、繋がることなく。
 心配すんな、だなんて、一番人を心配させるような台詞を残して消えてくれるな、と古泉は唇を噛み締めた。
 それが数日前のことだ。



 空を仰ぐ。夜の気配が近づいている。自分たち以外、人気のない公園は茜色に染まり、キョンたちの影を長くしていた。夕暮れ時は人を感傷的にさせる。ぐるりと見渡せば、懐かしい光景が広がっている。この公園も、今のキョンが本来いるべき時間平面上ではもうない。とっくに取り壊されてしまった。
 過ぎ去った日のなかに在るという感覚に、キョンはいつになっても慣れることがない。
 気絶した朝比奈みくる(小)の頬を朝比奈みくる(大)が撫ぜていた。いつくしむように。それを横で見ていたキョンは、微笑ましい光景だとしみじみと思った。
 みくる(小)と同じように気絶したまま動かない少年がふたり、土の上に重なるようにして寝そべっている姿には微笑ましいというか、むしろ苦笑せずにはいられないが。そんな少年たちの横にひっそり佇むのはひとりの少女。セーラー服にカーディガンを羽織った彼女はじっとキョンを見ていた。足元のぼろぼろのキョンではなく、こちらのキョンを。
 少女のビー玉のように透き通った両の瞳は、感情を表現することがまだまだ不得手とみえて、キョンにはそれがとても好ましく思えた。少女の瞳に引き寄せられるように、近づいてゆく。横に並んではじめて、ああ、こいつはこんなにも小さかったのな、と思った。
 おかしいかな、ヒューマノイド・インターフェースたる彼女がどの時間平面にいようとも身体的な特徴が変わるわけがないのに、今そこで佇む彼女は、キョンがよく知るキョンの時間の彼女よりも、ずっと小さく、折れそうなほど細い印象を受ける。少女だ。少女が、長門有希が、そこにいる。
 有希はじいっとキョンを見上げたまま、微動だにしない。キョンは苦笑をひとつ、徐に腕を伸ばし、有希の頭をぽんぽんと叩くように撫でてやった。かすかに、ほんのかすかに、有希の肩が揺れる。
 たまらなく、彼女を抱きしめてやりたいようなそんな気持ちになる。これはセクハラになるんかねと思い、キョンはもう一度だけ有希の頭を撫ぜてやるに留めておいた。ここはぐっと我慢だ。
 ふと視線を感じて顔をあげれば、朝比奈みくる(大)が含みのある魅力的な顔で笑っていた。キョンはひょいと肩をすくめてみせて、てきとうに場をやりすごした。別にやましいことを考えていたわけではないが、なんとなくきまりが悪かった。
 さて、とため息をひとつ。有希の頭から手を離して、キョンはその場にしゃがみこんだ。足元の少年たちは屍のように動かない。傷だらけ、泥だらけになって、ぐーすかぐーすか寝息を立てる少年たちの寝顔を覗き込む。間抜けで笑いを誘う寝顔、おだやかでうつくしい寝顔、そのどちらもがいとおしい。みくる(大)がみくる(小)を撫ぜた気持ちがよくわかる。ぎゅっと抱きしめて、抱きしめて、抱きつぶしてしまいたくなるほど、いとおしい。
「みんなに、ちゅうしたくなるでしょう?」
 気づくとみくる(大)が、みくる(小)を抱きかかえながら、背後に立っていた。
「そうっすねえ」
 ふふふといつになっても年齢不詳な朝比奈みくる(大)は笑い、そっとみくる(小)の身体を少年たちの傍に横たえた。
「あとは、よろしくお願いします」
 頭をさげたみくる(大)に、有希はこくりと肯いて、それっきりだった。
 キョンはこそりと笑った。
 なあ、知っているか、長門。俺の時間のおまえはな、少し笑うんだぞ、と心のなかだけで呟いた。



 人の気配がする。薄闇の中、古泉が目を開けると、酷い顔をしたキョンがいた。古泉はベッドから這い出て、キョンの腕を掴んだ。よかった、掴むことができる。古泉はほっと息をついた。
「ど、どこに……行ってたんですかっ」
「気持ち悪い」
「え?」
「吐く」
「えええ!」
 よろよろと足元の覚束ないキョンを大慌てで抱えて、古泉はトイレに押し込んだ。
 キョンはうげろんうげろんと胃のなかから吐き出せるだけ吐ききっても尚、苦しそうだった。キョンのこの様はどうしたことか、と古泉は考えをめぐらせる。キョンの背中を擦ってやりながら、古泉は尋ねた。
「未来ですか? 過去ですか?」
「過去」
 ビンゴ。返ってきたこたえに古泉はため息をこぼした。キョンは時間平面を移動してきたらしい。
「また僕だけノケモノですか」
 苦しそうなキョンには悪いと思いつつ、古泉はむうと眉を寄せた。拗ねるな、とキョンが言う。
「あーそうだそうだ。むこうで、かわいいこどもを見てきたぜ」
「こども?」
「セーラー服やブレザーを着た、こどもたち」
 瞼を閉じて、トイレの壁に寄りかかっているキョンはまだ青白い顔が抜けない。
 古泉は記憶を掘り起こして、学生服のキョンの姿を思い浮かべた。今よりも細身で、今よりもまだ顔が丸っこくて、たぶんもうちょっと背が低かった。
「なんかな、俺のなかで古泉一樹はいつだって古泉一樹だったんだけど、おまえも、色々変わったのな」
 くつくつののどで笑うキョンに、古泉は微かに頬を赤らめた。
「あなたは本当に僕をいったいなんだと……」
「超能力者、だろう?」
「超能力者だって成長くらいしますよ」
「うん」
 うん、とキョンが荒い息のなかで繰り返す。
 古泉は脂汗の浮かんだ額に手を伸ばした。キョンがうっすらと瞼をあける。古泉はキョンの前髪をかきあげて、そこにキスをした。何度もかきあげて、何度もキスをした。学生時代のそれよりも幾分か広がった感の否めない額を隠すために伸ばされた前髪をかきあげることが、古泉は大好きだった。古泉が前髪にふれると、決まって彼は顔をしかめるのだけれど、それでも古泉の好きなようにさせてくれる。
「次は僕も一緒に」
「朝比奈さんの許可が下りればな」
 ひっひっひ、と意地悪く笑うキョンの背中を抓る。キョンが呻く。睨みあげてくるキョンに知らぬふりをして、古泉はふと沸いた疑問を口にした。
「彼女、実のところ、いったいイクツなんですかねえ」
「禁則事項です」
 キョンが古泉に抓られたあたりを擦りながら、朝比奈みくるを真似てこたえる。
「だ、そうだ」
 ぶっと先に吹き出したのはキョンだったのか、古泉だったのか。そうして、ふたり、顔を寄せ合って、心ゆくまで笑った。泥と傷だらけだったあのこどもたちも、今頃笑えているといい、と願いながら。 

ハルヒ|071110初出