扉を開けたら、そこは腐海の森だった。
ごみのなかに埋まる成人した男の身体を引きずり出すのは、なかなか骨の折れる作業だった。何度も、何度も名前を呼んで、頬を叩いて、抱き寄せる。亜麻色の頭をぎゅっと抱え込んで、骨っぽい背中を擦ってやる。
なんてこった。なんてこった、古泉一樹。おまえ、こんなところで、ひとりで。ずっとひとりで。
つんと鼻につく臭いに、キョンは思わず泣きそうになった。おまえ、何日風呂に入ってないか言ってみろ。毒づいても、罵倒しても、腕のなかの身体はぴくりとも反応しやしない。
すっかり筋肉の削げ落ちたへろんへろんの身体を風呂場に運ぶ。人形のようなその身体をてきとうに転がして、藻が生えてそうな浴槽のなかをすすいだ。浴槽にお湯を貼る。こいずみ、こいずみ、何度も何度も彼の名前を呼んで、服を脱がしてゆく。服の下からのぞいた血色の悪い肌を前にして、キョンはすんと鼻を鳴らした。涙だけは流すものかと必死に自分に言い聞かせながら、古泉の身体をゆっくりと懇切丁寧に浴槽のなかに沈めてゆく。片腕でしっかりと古泉の肩を支え、カビだらけのボトルからシャンプーを出して、彼の頭に塗りたくった。
かなしさと、やるせなさと、どうしよもうない憤りでぐちゃぐちゃになりながら、キョンは古泉の亜麻色の髪をかき回した。嗚咽を堪え、軽口を叩く。
頭皮を特にしっかり洗ってやらんとな。油断してると、おまえ、きっと禿げに泣くことになるぜ。
頭髪用シャンプーでそのまま身体も洗ってやった。身体を半分ほど洗い終わったところで、キョンの服はもうびしょびしょだった。それでも構わず、キョンは彼の身体をくまなく綺麗にしてやった。綺麗にしてやらなくちゃいけない。ぴかぴかにしてやらなきゃ、そんであの芝居っぽい顔で笑えよ。
ちょっと待ってな、と言い残して、洗面所から髭剃り道具一式を発掘してくる。視線の定まらない瞳を瞼の下に隠させて、キョンは彼の古泉に剃刀を当てた。慎重に、伸びきった無精ひげを削いでゆく。
なんだよ、おまえ、俺より髭濃いでやんの。脛毛もばっちりだしな。ちきしょうめ。
じんわりと滲む古泉の輪郭に、キョンは慌てて目を瞬かせて、涙を堪えた。泣きながら刃物を扱うなんて、いかん。
「こ、いずみ」
「おい、聞いてるのか、古泉」
「返事をせんかい」
「古泉」
腐海の森はそのほとんどが紙で埋め尽くされていた。キョンには到底理解の及ばぬ計算式と下手糞な絵ばかりが描(えが)かれた紙、紙、紙、紙の山。
数学がどんなに高尚なもんか、キョンにはわからない。わからなくて結構。頭が悪くて結構。だって頭の悪い人間たちが呼吸する世界は、やさしく、あたたかい。
「古泉、そこは冷たいだろう」
泣いてなるものか。泣いてなるものか。
「なよっちいおまえにゃ、耐えられないだろう。だから」
「だから還ってこい、こっちに」
浴槽の外から腕を伸ばして、シャンプーの匂いのする濡れた頭を抱える。垢をおとしても尚、つやの戻らない肌を擦る。キョンの頬に伝うものが、ただの水なのか、それとも塩分を含んだものなのか、キョン自身にもわからなくなっていた。
「古泉」
「知的欲求を満たしてみたところで、おまえ自身はきっと満たされんぞ」
「そこじゃおまえは永遠にひとりだ」
ご存知ですか? と頬を高揚させていた高校生の古泉一樹を思い出す。宇宙は何次元だとか、丸いんだとか丸くないんだとか薀蓄を並べ立てていた古泉の声を右から左へと聞き流しながら、キョンは完全優勢のオセロの盤面を真剣に睨んでいた。あれは懐かしい、文芸部室での何気ない出来事だった。
3次元だか4次元だか小難しいことはさっぱりだ。そんなもんドラえもんのポケットで充分。
でも、そうだな、とキョンは思う。5次元空間は情報意思伝達が一瞬でなされるのだ、と語っていた古泉を思い出す。そうだな、今、ここが5次元の空間であったとしたら。キョンの気持ちも少しは古泉に届くんじゃないかな、と思う。
還ってこい、還ってこい。ぬくもりのある世界へ。
「3次元の世界は8つの断片の組み合わせで構成されている」
久方ぶりに聞く古泉一樹の声はしわっしわだった。カラカラに乾いた、声だった。無機質だ。
「もういい。もういいから、還ってこい、古泉」
「やさしい世界、いじわるな世界、うつくしい世界、きたない世界、たのしい世界、かなしい世界、おもしろい世界、つまらない世界」
「どんな世界でも、いつくしむべきものだ」
そして、世界はおまえが必死こいて守ってきたものだ。とキョンは言った。
ずたずたになって、ぼろぼろになった古泉を、キョンはいったい何度見てきたことか。
「そうだろう、古泉一樹。なんだかんだ言いながらおまえが愛してやまなかった世界はこっち側だろう」
「力を」
「うん」
「力を失ったんです」
そうか、としかキョンは言えなかった。
そうか、おまえ、超能力者じゃなくなっちまったの。だから、こんなところで不貞腐れて。閉じこもって。
「人に散々心配かけやがって、おまえいったいイクツだよ」
そろそろと伸ばされた細い指が、遠慮がちにキョンの輪郭をなぞってゆく。まるでキョンの存在を確かめようとするかのように、おっかなびっくりと動く指を、キョンは好きなようにさせた。
そうだ俺はここにいる。おまえも、ここに。腐海の森を出てゆけば、他のみんなも、そこに。
「ごめんなさいって言え」
キョンの不機嫌で不細工な泣き顔を映した、古泉の対の瞳が、揺れていた。
「ごめんなさいって」
古泉の眦からぶわっとあふれた大粒の金平糖のような涙は、ぼたぼたと熱い浴槽のなかに落ちて、とけてゆく。
「う、あっ……えっ」
古泉の形のよいのど仏が上下する。たどたどしい嗚咽が瑞々しい響きでキョンの涙腺を刺激してきた。さらに古泉がその情けない顔で、泣かないでくださいよ、だなんて言うもんだから、キョンはよけいに泣けてしまった。
心配したのだ、とてもとても。部屋のど真ん中で倒れているこの男を見つけたときは、心臓が止まるかと思ったのだ。
「はやく」
「はい」
「はやく、ここを出よう。みんな、おまえを待ってる」
「はい」
ぬかるんだ土を蹴って、枯れた草をかき分け、泥水を跳ねかせて、暗くつめたい腐海の森を抜ければ、きっそそこは。
オリーブ畑の案山子 20071102