ライラの街へ
その朝、目覚めて、何が変わったとか犀川創平はとかく意識しなかった。強いて何か挙げてみるとすれば、朝起きたら右腕がえらく痺れてたということと、ベッドの脇に服が脱ぎ散らかしてあったということくらいだ。
一方、西之園萌絵もまた、創平が起きて間も無く目を覚ました。彼女は起き抜けに創平の顔を見るやいなや、創平の腹の虫の居所が悪いことを指摘して、かつ、創平のそんな様子に対して腹を立てていた。そして、ムードがないだの(彼女の言うところのムードとやらが具体的にどんなものなのか創平はさっぱりわからない)、朴念仁だの(彼女が朴念仁などという言葉を知っていたことが創平には驚きだった)、最低だの(どのあたりが最低なのか、と問い返そうとした己の口にすかさずチャックをした自分の判断力の高さを創平は自ら高く評価した)、と朝から元気に喚き散らす萌絵に熱い熱いコーヒーを淹れてやって(彼女が猫舌だということを承知の上でのことだ)、創平は逃げるように玄関の外へ飛び出したのだ。
普段ならのろのろと下る階段を万年運動不足の身体に早朝から鞭打ってまでして全力で駆けて下り、駐車場の車に転がり込む。朝っぱら無駄なエネルギーを消費してしまったことよりも、怒った萌絵が追ってきやしないかと、そればかりが気になって仕方なかった。
何がどうでどうなったのか。創平自身、よくわからない。昨晩のことは、そう、よくわからない。
何かが変わるかもしれない、という危機感にも近い予感はあった。おそらくは萌絵にもあったはずだ。そんな危機感を無視してまで、萌絵に触れたのは何故だろう。創平にはよくわからなかった。
魔が差したというわけでもない。
ようやっと答えを出したのか、と問われれば、それも違う気がする。答えは、たぶんずっと前に出てた。少なくとも中心の創平は、らしくもなくその答えをおとなしく受け入れていた。むしろ抵抗していたのは、周りの創平たちだ。その彼らも、今はおとなしくしている。眠っているのか、思考に勤しんでいるのか。只の傍観者を決め込んでいるのか。
それとも諦めたのか。
(――何を?)
いったい自分は何を諦めたのだろう。そもそも何に対してあんなに固執していたのだろう。
蓋を開けてみれば、変わったことなど、何もない。
いつもと変わらない日常がそこに無造作に転がっている。そう、日常とは元来かわり映えのしないものだ。今日とて寝起きに午後一の定例会議の存在を思い出した瞬間から、創平にとっての変哲のない日常は始まっていたのだ。
真冬に夜通し外に置かれた車の中は、外気に負けず劣らず冷え切っていた。地味なマフラを巻きなおす。何気なしに口からついてでてきた嘆息は、透明な空気とフロント硝子を白く濁らせた。
ぐったりとステアリングにもたれ掛かる。
気が重いのは、萌絵のせいではない。彼女が指摘したとおり、創平は起きるなり少なからず不機嫌だったが、決して萌絵のせいではない。寒さのせいでもない。
自らその不機嫌の原因を分析するまでもなかった。定例会議のせいだ。定例会議や委員会がある最も憂鬱な日。それは創平が、大学に勤務しだしてから変わらぬ、日常を構成する要素のひとつだった。定例会議があれば、創平の気は滅入る。委員会に於いても、然り。無理を承知で欲を言えば、自ら教鞭をとる講義もなくなって欲しいとさえ思う。嗚呼、日々研究だけに、脳内活動だけに、エネルギーを注ぐことができたのなら。
萌絵とて、創平のそういう思考を重々承知しているはずなのだが、萌絵曰く、今日という朝ばかりは創平のまさにそういった思考回路が気に入らなかったらしい。
「何でよりによって、こういう朝にそんな顔をしてらっしゃるんですか!」
今朝の開口一番の彼女の台詞が、彼女の胸中を如実に物語っていた。少しはいつもとは違う、新しいものに気を配ってくれたっていいじゃないか、と萌絵は言いたいらしかった。それが、つまり彼女の言うところのムードとやらなのか。
決定的で、激的で、たしかなものをずっと求めていた萌絵。それを知りながら、一分一秒のゆるやかな変化をのらりくらりとかわすわけでも、受け止めるわけでもなかった創平。裏を返せば、創平はそうやって少しずつ変化してゆく流れに固執し続けていた。
とりあえず、萌絵の望んだ激的な何かはなかったように創平は思う。目の前に広がるのは、かわり映えのしない日常だけだ。
それでいい。それが、いい。
昨晩のことは、やはり魔が差したわけでもなく、何か強い力が自分に働いたわけでもなく、自然の流れだったように思う。日頃積み重ねてきた、小さな、ほんの小さな変化たちの先に、彼女のやわらかな身体があっただけだ。それに触れるのに、いつもより覚悟と勇気が必要だったことは、事実だけれど。
車にキィを差し込んで、ステアリングに指をかける。あ、と創平は思わず声を漏らした。
袖口から覗いた愛用のアナログの腕時計。時間を合わせる――毎朝、時計の秒針まで合わせるのが創平の日課だ――のを、すっかり忘れていたことに気づいた。
硬直する創平に向って、中心の創平が薄く笑っている。他の彼も同様に。
(なんだよ、おまえ。そんなたいそうに動揺してたのか)
そう言って、咽喉を鳴らしている。
S&M|20050617初出