「ハウル……?」
たった一言。名前を呼んだだけで、聡明な魔法使いはすべてを理解したらしい。徐に布団から顔をだした彼は、幼いこどもが拗ねたかのように口を尖らせていた。夕飯のときまで、いっそ不自然ともいえるくらいににこやかに笑っていた彼がまるで嘘のようだった。それだけ、彼に我慢をさせていたということだろうか。
「今日は、もう勉強はいいのかい?」
ソフィーの勉強の様子を心配するようでいて、実は皮肉たっぷりなその台詞。やっぱりハウルのご機嫌度バロメーターは芳しくないらしい。
「平気よ」
と、ソフィーはハウルの横に自身の体をすべりこませる。枕に頭を置いて隣のハウルの顔をじっと見つめた。そういえばこうやって顔を見合わせながら一緒に眠りにつこうとしたのは、久しぶりのような気がする。最近は、いつもハウルが先に寝てしまって、ソフィーは遅くまで勉強に励んで。改めて考えると、かなり酷いことを旦那に強いてきた自分が、あとからあとから思い起こされる。
「………怒ってる?」
恐る恐る尋ねれば、
「怒っているようにみえるかい?」
ハウルは静かに言った。
「ものすごく」
申し訳なさそうに目をふせたソフィーを見て、ハウルは眉尻を下げて笑った。ハウルの笑い声にあわせてベッドが微かに揺れ、ソフィーにも伝わってくる。のろのろと顔を上げたソフィーの頬にそっと手を這わせた。ごめんなさい、と小さいけれどしっかりと響く声でソフィーがハウルに謝ると、一層ハウルの眉尻が下がった。
存外あっさりと赦してくれたらしいハウルに、ソフィーはほっと安心したように胸を撫で下ろした。
「マイケルにでも聞いたのかい?」
「ええ」
「いつ?」
「今日」
「どこで」
「カレッジで」
カレッジぃぃ――――!?途端、ハウルはがばりと体を起こした。ぎょっとしたように目を見張るソフィーに、ハウルはぐいと顔を寄せて詰め寄った。カレッジとはどういうことだ。
「マイケルがカレッジに行ったのかい?」
「え、ええ……そうだけど?」
多少引き気味ではあるが、ソフィーは確かに頷く。そんな彼女を目の当たりにした途端ハウルは、嗚呼!と大げさな動作で天井を仰ぎ、次の瞬間にはおいおいとこれまた大げさに泣きながら布団に突っ伏した。
「ひ、ひどい。ひどすぎるよ、ソフィー!!」
「はぁ?」
「あんたはやっぱりぼくのことなんて好きじゃないんだ!」
「ちょ、ちょっとなに言って……」
あんたはぼくのことを邪険に扱ってばかりだの、旦那に対する愛が足りないだの、不公平だの云々かんぬん。ふだんだったら、ソフィーの堪忍袋の緒が切れている頃合だが、いかんせん今日までハウルのことをすっかり放置して、勉強や家事に勤しんでいたという事実がある手前、今日のソフィーにキレルという選択肢がなかった。
ソフィーが強くでられないことを承知のうえでの行動なのかどうかは定かではないが、兎にも角にもおいおい叫び続ける旦那をいったいどうしたものか、とソフィーはただおろおろしながら見守るしかない。
「ソフィーなんて、ソフィーなんて!!」
「は、ハウル! おお落ち着いて!」
「ずるい! ずるすぎるよ!」
「な、何が…?」
「ぼくもあんたの通うカレッジに行ってみたいってことさ!!」
はい?と目を点にしたソフィーを、ハウルはじと目で睨みつけてやった。
「ぼくにはカレッジ来るなってさんざん言うくせに……」
「あー……」
彼の言わんとしていることを、ソフィーはここにきてようやく理解した。
ソフィーの学生生活にいたく感心があるらしいハウルはこれまでも何度かソフィーに、カレッジに行ってみたいとさんざん申し出てきたのだが、何故かソフィーに頑なに拒まれていた。編入初日でさえ、ソフィーを心配してカレッジについていこうとしたハウルをソフィーは無理やり城に置いていったのだ。
理由は、ひとつ。
ハウルという人が異様にまわりの人間の目をひくからだ。中身がどうであれ、見目麗しい部類のなかでも指折りの彼を隣につれてカレッジになんて行ってみろ。ただえさえ珍しい編入生であるソフィーが、カレッジ内で悪目立ちをすることは必至。さらに目立つような行為だけは、なんとしても避けたかったソフィーにとって、ハウルのカレッジ訪問はなんとしても阻止せねばならぬことであった。
そして、最近、それにもう一つ理由ができた。――――そう、ウィリアムの存在である。
もちろんソフィーにやましいことなど一つもない。むこうが勝手に陽気なストーカーよろしく、一方的にソフィーに付きまとっているだけだ。だけど、いくらソフィーにやましいことがなくとも、果たしてこのハウルがそれに納得するだろうか。こたえは考えるまでもなく、否。
ハウルがカレッジにやってきたらどうなる?
ウィリアムとハウルがばったり会ったりしたらどうなる?
ウィリアムの存在を知ったときのハウルを想像するだけで、恐ろしい。その逆パターンもまた然り。ハウルを目の当たりにしたウィリアムの暴走っぷりなんて考えたくもない。
ウィリアムにきちんと事情を説明しようと考えたこともあった。自分は既婚者なのだ、と言うのが彼のためでもあるのは重々承知しているが、相手はウィリアムだ。あのウィリアムだ。ふつうの男じゃない。くどいようだが、ウィリアム=ジョーンズだ。自信過剰で、自意識過剰で、我侭で。そんな人間にいくら誠心誠意説明をしたところで事態が良い方向に進むとも思えない。むしろ悪い方向に行く気がしてならない。最悪、城に乗り込まれるかもしれない。ウィリアムなら十分考えられる。それはなんとしても御免被りたい。
平和に。穏やかに。
それが、ソフィー=ハッターの切なる願いだった。もとよりハウルという男との結婚を決めた日から、人並みの穏やかな生活なんぞはなから期待してはいなかったが。が、それでも、せめてカレッジライフぐらいは人並みに過ごしたい。折角、あれだけ勉強して入学したカレッジなのだから。
「ソフィー!」
「だ、ダメよ!」
捨てられた仔犬のように瞳を潤ませるハウルを少しだけ哀れに思いながらも、ソフィーは心を鬼にした。ダメだ。絶対に譲れない。これだけは譲れない。
「どうしてだい!?」 マイケルはよくて、どうしてぼくはだめなんだい!?
「マイケルの場合は非常事態だったのよっ!」
「ぼくの心も非常事態さ!あんたのカレッジでの姿を見てみたいって心がサイレンのように訴えかけてくるのさ!」
「気のせいよ!うん、気のせい!」
「気のせいなものか!!」
ええ、そうでしょうとも。気のせいではないでしょうね。でも、だけど、絶対に絶対にここは譲れない!
「ソフィー!」
「いいかしら?ハウル?もし、あんたがカレッジに顔を一秒でも出して御覧なさい」
平和に。
「朝ご飯・夕飯抜き。お弁当もつくってあげない。夜の添い寝もなし、よ!」
穏やかに。
ソフィーが望むのは平和な結婚生活と、穏やかな学生生活。
「そ、そんな!!」
あんまりだ!と頭をかかえるハウルに、たたみかけるようにソフィーはさらに続けた。
「魔法で姿を消して、っていうのもなしよ。そんなことをした日には……」 深呼吸をして、ずいとハウルの鼻先に指を突き立てる。 「離婚してやる!!」
「あ、あ、あ、あんまりだぁぁぁぁ!!」
(ハウルの動く城,2005/02/25)(2006/01/01改)
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