星くるみ
夜空を見上げるたび、気づけば彼女の星を探していた。
健やかであれ、幸せであれ、といつだって祈っていた。
いかにも不本意ですといった態で自分を呼び止めた曹孟徳に、孔明は羽扇で顔の半分を隠しながらはてと小首を傾げた。めずらしいこともある。気持ちをこうもあらわにする曹孟徳を孔明は知らない。
孔明が驚きを隠せないでいると、孟徳はすっと目を細めて睨めつけてきた。
(……いけないいけない)
驚くあまり不躾に見つめすぎてしまった。孔明は内心の焦りなどおくびにも出さずに人好きのする顔でにこりと笑い、慇懃に頭を下げた。
さて、自分は国一の権力者のご機嫌を損ねるような何かを仕出かしただろうか? と考え……るまでもなかった。孔明は羽扇の内側でこっそりと嘆息をこぼす。いかんせん心当たりがありすぎた。となれば、この場をどうやって切り抜けようかと考えを巡らせる。そうこうしているうちに、頭上から盛大な孟徳の溜息が降ってきた。一国の丞相に不機嫌な声で呼ばれて、睨まれて、そして終いには溜息をつかれる。状況がいまいち飲み込めず、口八丁手八丁な孔明をもってしても困惑するばかりだ。
「まったく、おまえみたいな根性のひん曲がった男が師匠だなんてありない」
ぶつぶつとひとりごちる孟徳に、孔明は頭を下げたまま目をむく。視線の先、孟徳の靴があった。
「は?」
(師匠?)
誰が? 僕が? 師匠? 誰の?
孟徳の足元を視界におさめながら、考えること数秒。導き出した結論に孔明ははたと面をあげる。
諸葛孔明が弟子と認めた人間はこの世でただひとりだ。
羽扇で顔を覆うことも忘れて、あんぐりと口を開いている敵の軍師に、孟徳はふんと鼻を鳴らした。曲者と専らの評判の諸葛孔明の間抜けな面を拝めたことで、溜飲が少なからず下がったようだ。それでも不愉快なことには変わりはないようで、ただただ絶句する孔明に向かって孟徳は口元をゆがめて言った。
「うちの子がおまえに会いたいと言ってきかずに、許から長安までついてきてしまってね。そこの部屋で待たせてある。ついでだからおまえの主も呼んできたらいい」
ただし、と孟徳は続けた。
「会うも会わないもおまえたちの自由だ。俺は強制はしない」
どうぞ会わずにお引き取りください、と言っているようにしか孔明には聞こえなかったが、孟徳が望むように引き下がる理由も義理も孔明は持ち合わせていなかった。
孟徳と彼の右腕と評判の武将の間からぎこちない仕草で姿をあらわした弟子は、多少表情が強張っていたけれど、記憶のなかの彼女よりもずっとうつくしく見えた。孔明の隣にいる玄徳は花を眺めたままぽかんとしているし、孔明自身思わず目を瞠ってしまった。
(参った……)
羽扇の影で孔明は苦笑する。
どうして彼女がこんなに綺麗になってしまったのか。理由なんて考えるまでもなかった。
おもしろいわけがない。でも、彼女が不幸ではなくてよかった。ほんとうによかった。――そういう風に思うことができた自分に、孔明はほっとした。
「やあ、久しぶり」
孔明は努めて明るく笑った。途端に花の強張っていた頬が、今にも泣きそうな顔に歪んでゆく。息をのんだのは、花の隣を陣取ったまま動かない曹孟徳である。そんな孟徳を横目で観察しつつ、孔明はちょこんと小首を傾げて、顔をくしゃくしゃにした花に向かって両腕をひろげてみせた。
「ほら」
花の濡れた瞳が孔明をうつして、ゆらゆらと揺れている。
「おいで。かわいい弟子の顔をここにきてしっかりお見せなさいよ」
「ふ、ふぇ……っ」
嗚咽をかみ殺して胸に飛び込んできた花の身体を孔明は力いっぱい抱きとめる。羽扇が手からこぼれ落ちてしまったけれど、そんなこと気にもならなかった。
顔を見せろと言ったのに、不肖の弟子ときたら師匠の胸に頬を押し付けて泣くばかりで、顔を見るどころじゃない。わんわん泣いて泣いて、泣き止んだと思ったらごめんなさいごめんなさいと繰り返しては、また泣き出すのだから。孔明は呆れ果て、最初こそ呆気にとられていた玄徳も笑いながら、孔明の腕のなかの花の頭をくしゃくしゃと撫でていた。
「裏切り者って罵られるとでも思ってた?」
抱きしめた小さな頭が揺れる。
「馬鹿だねえ、この子は。そんなことあるはずないのに。そんな風に考えてたんじゃあ、ボクたちに会うのも怖かっただろうにねえ」
こたえる代わりにぎゅうとしがみついてきた花がかわいくて、いとおしくて、孔明はますます腕に力をこめた。
今日この場に至るまでの花の心のうちを想像する。どんなに怖かっただろうに、とかわいそうに思う。しかも曹孟徳の様子から察するに、花はずいぶんと無理を言ってこの長安までついてきたらしい。これをいじらしいと呼ばずになんと呼ぼう。
「し、ししょ……」
胸元からくぐもった声がする。
「んー?」
「く、苦し……んです、けど」
「弟子思いのやさしいお師匠様を散々心配させた罰だよ。師匠孝行だと思って少しは我慢しなさい」
花の頭を胸元に押し付けたまま、ふと顔をあげると曹孟徳のそれはもう物騒な視線とかち合った。視線で人が殺せるなら、自分は間違いなく八つ裂きにされているだろうなあと孔明は思った。
(いやー好色の曹孟徳をこんなに骨抜きにするたあ我が弟子ながら天晴れだね)
涙のあとを辿るように指先を花の頬にそっと沿わせる。さんざん泣いて泣いてよほど疲れてしまったのか、花は深い眠りについたまま身じろぎひとつしない。泣き疲れて眠ってしまうだなんてこどもみたいだ、と孔明は苦笑した。
すっと孔明の前に人影がさす。孔明があ、と声をあげる間もなく、曹孟徳は孔明の腕から花の身体をいとも容易く奪い取っていった。高価な陶器を扱うかのように丁寧に花の身体を抱き、そのまま去っていこうとする背中を孔明は呼び止めようとして止めた。
花がどこぞの軍師に会いたいと言えば、孟徳はそれを叶えてやらないこともないけれど、軍師が花を引き止めたいと言ったところで、鼻で笑われるのが関の山だ。たいした地位を持たないことがこんなにも歯がゆいと思ったのははじめてだった。
「丞相殿」
孔明の心のうちを知ってか知らずか、玄徳が孟徳を呼び止めて花をよろしく頼むと言って頭を下げた。孔明も玄徳の言葉に続くように、頭を深く下げる。
健やかであれ、幸せであれ、といつだって孔明は祈ってきた。それはこれからもかわらない。
たとえ自分の星が彼女のそれに添うことはないと知っていても、彼女がこの広い世界のどこかで笑って、輝いていられるように、自分は出来うる限りすべての手をつくそう。孔明は拾い上げた羽扇にかたく誓ったのだった。
20100531