遠路はるばる中央から茶州まで、雪まみれで現われた小さな御仁を、櫂瑜はしわくちゃの顔をこどものように輝かせて、寝台の上から出迎えた。久しく顔を見ていなかった旧友の来訪だ。病に伏した櫂瑜の心を躍らせるには充分だった。
 にゅっと伸びてきた櫂瑜の長い腕を紙一重でかわして、小さな御仁、もとい羽羽は呆れたように嘆息をつく。寝台の上の櫂瑜は空振りした腕をぶらぶらとさせながら、恨めしげな視線を羽羽に寄越してきたが、羽羽はそれをさらりと流した。
 人一倍身体の造りの小さな羽羽を見るにつけ、すぐにそれを抱き上げようとするのは櫂瑜の昔から変わらぬ数少ない悪癖である。ふたりが出会ってから半世紀以上が経つが、はじめの一〇年ほどは羽羽も櫂瑜の悪癖を矯正させようと奮闘した。頑張った。ものすごく、頑張った。切々と訴えてきた。が、結局治らなかった。もう諦めた。ここまで来てしまえば、九〇歳を過ぎた老人に今更何を言っても無理だ。
 羽羽が寝台の横の椅子にちょこりと座った途端に性懲りなく伸びてきた腕を、今度は羽扇で叩き落して、
「わたくしなんぞを持ち上げたら、腰を折りまする。病人はおとなしくしておるべきです」
 と、羽羽は諭すように言った。
「もう治りました」
 土気色の顔で櫂瑜はしゃあしゃあと言う。
「何をおっしゃいますか。あやうくポックリ逝きかけたと聞いておりまする。この上、腰を折ってでもごらんなさいませ。ギックリで次こそはそのままポックリですぞ」
「いやですね、そんなおじいちゃんのような話し方をしないで下さい」
「あなたもわたくしもおじいちゃんでしょうよ!」
 暢気な櫂瑜の物言いに、たまらず羽羽は一喝した。あんまり久しぶりに怒鳴ったものだから、咽た。すかさず櫂瑜に差し出された水を一息に飲み干して、羽羽は息をつっかえつっかえ繰りかえす。
「気をつけてくださいね。もう若くないんですから、ポックリ逝ってしまいますよ」
「あなたがそれをおっしゃいますか」
 櫂瑜は肩をひょいと竦ませて、茶目っ気たっぷりに、しかしとても品よく笑った。羽羽はこの期に及んでうっかりくらりとしてしまった自分を、呪った。
 この笑顔がいったいどれだけの女を陥落させてきたことか。望まぬともときには同性までも落としてきた櫂瑜の色男ぶりは、齢九〇を過ぎても尚、衰えることはない。そして同じく九〇歳を過ぎて、友人の美貌にどきどきしている羽羽も羽羽だった。
 櫂瑜は昔から何をやっても様になる男だった。長い睫毛を伏せ、瞬きひとつしただけで、彼の前には失神した女男の山が積みあがるほどだった。彼(か)の黄家の才人の美しさすら、この男の前では霞んでしまう。
 羨んだことがある。妬んだことがある。その美しさを、そして何よりもその内側に秘められた志の高さを、羨望と嫉妬の入り混じった眼差しで眺め、愛した。こんなにも大切だと思った友は、櫂瑜のほかにいない。
 とはいえ、ここ一〇年の羽羽と櫂瑜の友人らしい交流といったら季節の便りをかわしあうのが関の山で、一年一度、顔を合わせることができれば上々、その際に一言でも言葉をかわせば、まさに奇跡といった風だった。お互いに忙しい身だった。
 そうこうしているうちに、いよいよもって瀕死のご老体となってしまった。時は瞬く間に過ぎてしまう。
「本当にいらしてくださってありがとう。寒いなか、大変だったでしょうに」
 うれしいよ、と櫂瑜のしわしわの手が、羽羽のしわしわの、櫂瑜より小ぶりの手の上に重ねられる。
 どっと感傷が押し寄せてきて、白いふわふわの眉毛の下で涙をにじませかけた羽羽であったけれど、ふいに寝台の横に積みあがった書簡を視界に捉えて、眉をひそめた。
「我が君がくれぐれも無理はしてくれるなと」
 羽羽が嘆息交じりにそう言うと、櫂瑜はうれしそうに、そしてどこか誇らしげに笑ってみせた。
「――ねえ、私はこの地に骨を埋めることになりそうですよ」
 思い残すことはないのだと。私は満足だと。櫂瑜はしわくちゃの顔を破顔させる。
 目を伏せた羽羽を抱き寄せる櫂瑜に、今度は羽羽は抗わないでいた。
「我が君に心からの感謝を。ありがとう、ときっとお伝えくださいね」

 そうして、最愛の友の言葉を携えて王のもとに帰った羽羽が、友が遠い茶の地ではかない人となったと知ったのは、それから間もなく。友へ春の訪れを喜ぶ便りを認めていた麗らかな昼下がりのことであった。


それはとある雪の日の話
20090125
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