雲海を通り抜けてきた風にまぎれて声がする。
 おかえりなさい。――だれかがそう囁いている。
 近くに人の気配はなく、ただサルたちが佇むのみ。サルは岩山の急な階段のひとつに腰掛けている悠舜を興味深そうに眺めていたが、まさかそのサルが人の言葉を話すわけもなく。悠舜ははてと小首を傾げて、仕掛け階段を解きにひとり先に行ってしまった黎深が戻ってくるのを待った。

「なんだそのサルは」
 戻ってくるなり、悠舜の膝のうえのこどものサルを睨めつける黎深に、
「話相手になってもらっていたんです」
 と、悠舜がこたえると、黎深は鼻で笑ったうえに、
「サルが話すものか」
 と、らしくもなく至極まっとうな言葉を返してきた。
「この世には話すサルもいるかもしれません」
 自分に背中を向けて屈んだ黎深の肩に悠舜は自然と腕をまわし、そのまま黎深におぶさった。悠舜の膝のうえにいたサルは悠舜が座っていた階段にちょこんと立ち、黎深に背負われる悠舜を仰ぎ見ていた。つぶらな瞳にさようならと手をふれば、「サルになんぞ愛想をふりまくな」 とえらく不機嫌な声で黎深が言った。
「で、私のいない間になんの話をしていたんだ」
「え?」
 黎深が一段一段と慎重に階段とも言えないような垂直の階段を上ってゆく。悠舜はただその背中に仔サルのようにひっつくだけだ。
「サルと話をしていたんだろう、おまえ」
「いやですね、悠舜。サルはしゃべりませんよ」
「……」
 一気に不穏な空気を醸し出した背中に、悠舜はからかいすぎたかなと苦笑する。
「いえ、景色が綺麗ですねとかそんな話を」
「サル相手にか」
 そのサルたちが、紅山の闖入者たちのまわりとうろうろとしている。悠舜と黎深が山に踏み入れてからずっとだ。道中、休憩を入れるたびに、サルたちは黎深にきゃっきゃと群がっていた。なかには黎深の頬に熱烈な口付けをするサルまでいた。藍家の三つ子たち曰く 「サル山の大将」 は大将と言うだけあって、やはりサルから好かれているようだった。
「サル山の……」
「おまえといえどもその先を言ったら、私は怒るぞ」
 悠舜は笑った。怒るぞ、だなんてあの紅黎深がわざわざ宣言する程に気にかける人間が、果たしてこの世に何人いるだろうか。
(きっと片手で足りる……かな?)
 邵可に秀麗を筆頭に、妻や、養い子。共に国試を突破した悠舜たち。それに加え、ちょっとずつ増えていった人たちがいる。
(あれ?)
 悠舜は瞬いた。
「あれ、足りませんかね?」
「は?」
「……いやいや、あなたがおとなになったんだなあと」
 白い花びらが舞う苑で幼い悠舜をあっさりと切り捨てた、あの黎深が。
「私はいつだっておとなだ」
「おとなというか、おじさんですねえ。下手すればもうすぐおじいさんですよ」
「お互いにな」
「ええ、お互いに」
 淀みなく進む背中におぶさりながら、悠舜は少し首をめぐらせて雲海を見下ろした。
 本当はこの山に入ってから、黎深にずっと尋ねたかったことがある。雲海を見上げながら階段を上り、やがて雲海のなかを突き進むように階段を上り、そうして雲海を見下ろすほどまで階段を上り。そうこうしているうちに山に足を踏み入れてから、今日が七日目だった。この七日間、じじいになりかけている友人は、足の悪い自分をおぶさったまま、淡々と淡々と急な階段を攻略してゆく。まるで化物のように。
「ねえ、黎深」
 黎深の肩に顔を埋めて、悠舜は呻くように言った。
「あなたは今まで何度この山道を登ったんですか」
 無粋なことと承知しながら、それでも尋ねられずにはいられなかったのは、悠舜が既にこたえを知っていて、そのこたえが涙が眦ににじむほど嬉しかったからだ。ただお荷物のようにおぶさっているだけの悠舜でさえ疲れを感じずにはいられないこの底意地の悪い山道を、黎深はほとんど息を乱すことなく、昇ってゆく。きっと鍛えたのだ。そして背中の悠舜に負担がないようにと、少しでも足場が良い場所を少しも迷うことなく選び取ってゆく。彼はこの岩山を知り尽くしている。かつてこの階段の先の里で暮らしていた悠舜以上に。こんなこと、何度も何度も繰り返し山を登らなきゃできるはずがない。
 悠舜は自分の身体が震えていることに気づいた。いつだって奥に奥にとすべてを押し殺してきた自分とは思えないほどの興奮が、湧き出てくる。
「面倒くさがりのくせにこんなにまあがっしりとした肩になってしまって」
「きりきり中央で働く奇人や私たちに腐ったみかんやふざけた手紙を送りつけながら、紅州でのんびりとご隠居生活でも楽しんでいるのかと思ったら」
「黎深」
「黎深、聞いていますか」
「あなたの大嫌いな王と手を結んでまで超多忙な私をそれこそだまし討ちのように外に連れ出して、なんだってこんな岩山に登ろうだなんて言い出したのか、そろそろ薄情したらどうです」
「黎深!」
 なんとか言いなさいと悠舜が黎深のきゅっと首を絞めたところで、ようやっと黎深は口を開いた。
「そろそろ見ごろだろう」
「何がです」
 黎深らしくもないまごまごとした口調に、悠舜は苛立った。
「おまえの里が」
「あんな廃墟に何があるっていうんです。瓦礫の山です。あなただって知っているでしょう」
 かすかに力の入った肩に、悠舜ははっとした。違う。こんなことを黎深に言いたいわけではない。ましてやいたずらに彼を傷つけたわけでもない。
「ごめんなさい、黎深。でもね、私だって知りたいんです。そろそろ教えてはくれませんか?」
「……李と梨が」
「植えたんですか!?」
 思わず悠舜は黎深の耳を引っ張って、顔を向けさせた。
「おまえの好きな花だろう」
 ――すべては鄭悠舜のために。
 絶句した悠舜から逃げるように、黎深はまた前を向いて、階段を黙々と上りだした。
 階段の終わりが見えた。近くのサルたちがくたびれた人間ふたりを労うように手を叩いている。階段を上りきった先の迷路を突破すれば、もう彼の里だ。

 風が通ってゆく。
 遠く、誰かが囁いている。それは懐かしい父の声であったり母の声であったり。
 おかえりなさい。――それがまるで言霊のように、悠舜の胸に染み渡る。


紅い海に流されていく
20081221
title by ダボスへ