三治とたえがまた喧嘩したらしい。
 たしか数日前にも似たような話を聞いた気がする。そのさらに少し前にもやっぱり似た話を耳にした。
 今度は人の往来のど真ん中でたえが三治を引っ叩いたのだとか……。
(だからどうした!)
 ――と、地団駄のひとつでも踏めばこの苛立ちも少しは緩和されるかなぁとせんないことを進は考えた。とはいえ考えるだけで、結局地団駄を踏むどころか小さなため息をひとつをこぼすのがせいぜいな自分の小心者っぷりが情けなくて涙がこぼれてきそうになる。もちろんその涙も心のなかでこっそり留めておくのだけれど。なんにせよ情けなさすぎる。
「あの、進様?」
 進がはたと我にかえると、はるが思いつめた表情で進の顔をのぞきこんでいた。
 眉根を寄せて、埃をおとすはたきをぎゅうっと胸に抱えているはるは、欲目を抜きにしてもとてもかわいいと進は思う。抱きしめたい、ついでに口づけぐらいさせて欲しい、と欲望はつきないのだけれどそういう雰囲気でもない。せっかく若い恋人同士が男側の自室というそう広くない空間でふたりきりでいるのに。
 もっともふたりきりと言ったところで、はるの立場は使用人で、進はその主。しかも今は真昼間でテラスに面した窓から差し込む光はやたら眩しいし――つまるところ、恋人同士の時間には早すぎるわけだ。それでも、少しくらい触りたいなぁと考えてしまうのが男の性だった。
(ああ、だめだ、いらいらする)
 身も蓋もない言い方をすれば、ずばり欲求不満だった。
 知らなかった、自分がこんなにがつがつした一面を持っている男だっただなんて。
「たえちゃんたち、今度こそダメになってしまうんでしょうか?」
「はい?」
「だって今、進様、た、た、ため息を……!」
(しまった)
 進は心のなかで舌打ちする。自分の不用意なため息がはるの不安を掻き立ててしまったらしい。男の性がどうのこうのだなんて考えている場合ではなかった。
 親友の恋の行方を心配するあまりいよいよ涙声になりだしたはるの頭を、進は慌てて撫でてやる。
「そんなことないさ、きっと大丈夫」
 言うは易し、である。
 あのふたりがそうそう簡単に落ち着くとも思えない。
 三治が名家澄田の分家出とはいえまがりなりにも長男という立場にあること、その澄田が抱えた多額の借金、澄田とたえの実家のどうしようもない格差。加えて当人たちがそろいもそろって勝ち気な性質(たち)なものだから口げんかなんて日常茶飯事。特にお互いが歯に衣着せぬ壮絶な口げんかがあだをなして、些細なすれ違いがとんだ惨事に発展することも少なくなかった。
 家柄だ長男だ借金だという問題の大きさも然ることながら、それらをいっしょに乗り越えなきゃいけない当人同士がしょっちゅう喧嘩してれば世話ない。
 そんな状態で、うまくゆく要素を探せというほうが土台無理な話だと進は思う。
 むしろよくぞ今日まであのふたりが破局しないでこれたものだと奇跡を喜んだほうが、日々ふたりの騒動に巻き込まれている進からすれば精神衛生上よっぽどよいというものだった。というかもういい加減まわりを巻き込んでくれるなとふたりに不満を申し立てたい。
「ほんとうに大丈夫でしょうか? たえちゃんって口はきついけど、ああ見えて色々考えすぎちゃったりして、それで素直になれないことも多いですし……」
「三治も大概口が悪いというか。うん、まあ、大丈夫だよ。ふたりともちゃんと今後のこと考えてると思うよ?」
「ですよ、ね?」
(……たぶん)
 たぶん、考えているだろう。いや、ちゃんと考えてくれていてくれないと、今こうしてふたりのために気を揉んでいるはるが救われない。そのはるに乞われて、今まで散々ふたりの間をとりもってきた進の努力も報われない。
「進様?」
「あ、うん、大丈夫、大丈夫」
 根拠もないのに、進はしゃあしゃあと大丈夫だと言ってのけた。 
「ほら泣かないで、ね?」
 やさしい顔や声、雰囲気を作るのは進の十八番だ。目立たず、騒がず、諍いがおこればやんわりと仲裁役を買ってでたりして、ずっとそうやって生きてきた。幼い頃から母親に叩き込まれた「女性にやさしくあれ」という教えを忠実に守ってきた結果だった。そのせいで意図せず女性をたらし込んでしまうこともあり、逆にそのやさしさをもってして迫ってきた女性にやんわりとお断り申し上げることもできたわけだ。
 そのやさしさを総動員して進ははるを慰めにかかる。どさくさまぎれにはるを抱き寄せたりなんかして。
(大概やらしいな、俺も)
 このままはるをたらし込めるなら上等。ベッドはすぐ傍。真昼の日差しなんてカーテンをひけばよいだろう。
「あ、あの、進様、どうかなさったんですか?」
 この期に及んで、状況がよくわかっていないはるが愛おしい。
「んーだって君が泣くから」
 はるの首筋に顔を埋めながら、進は囁いた。
「泣いてません」
「そう?」
 だとしても離すつもりはないけれど、とさらに腕に力を込める。
「なにか、あの、怒ってます?」
(怒ってる? ああ、たしかに怒ってるのかも。まったくもうこの子は鈍いんだか、鋭いんだか!)
 進はくすりと笑った。
 形だけのやさしさを振りまくことは出来ても、その実、ごく近しい人間以外をだいこんだかかぼちゃ程度にか認識していないような人でなしの進と違って、心根がほんとうにやさしいはるに心を砕いてもらえる三治やたえが憎たらしい。目の前にいる恋人を放って、他人のことばかり考えているはるがいっそ恨めしい。
 人はそれを八つ当たりだとかやきもちだとか呼ぶ。
 ようははるの持つやさしさがまるっとすべて自分に注がれなければ気がすまないのだ。
(我ながらこどもっぽいなあ……)
 いらいらしたり、地団駄をふみたいと思ったり、やきもちやいたり。
「進様?」
 でも、ほら、と進は思う。
 ほら、はるがこうして進の頭を一所懸命撫でてくれるから。
「おかしな進様」
 こどもみたい、と笑うはるに、進はこどものように口づけを乞うのだった。


きみと昼寝がしてみたい|title by "ダボスへ"|20110225