細い女のように華奢な体が、その実、着物を脱ぐと男のそれだということを薫はその夜、はじめて知った。体中に刻みこまれた無数の傷跡は彼がどんなに苦しい人生を歩んできたのかを如実に物語っているようで、薫の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
腕のなかで突然泣き出した女を、男はいったいどんなふうに思ったのだろう。薄暗闇の中で猫のように光る紫色の双眼が揺れている様を見れば、男は少なからず動揺しているようだった。
「薫殿……?」
儚げな声は、男が薫に拒絶されたのではなかろうかという不安を滲ませていて、薫はゆるゆると首を振ってそれを否定した。
それでも動揺したまま動けないでいる彼の頬を両手でそっと包み込んで引き寄せた。きゅっと結ばれた薄い唇に彼女の桜色のそれが触れれば、彼の瞳が大きく見開かれ、そしてぎこちない笑みを作り出す。少し気を安らかにしたのか、彼は薫の濡れた頬に手の甲をすべらせた。
「怖い?」
怖い。確かに薫は怖かった。が、それは男が今思っているような怖さとは違う。
「大丈夫? 薫殿」
薫はそれには答えずに、彼の肌蹴た着物から見え隠れする傷にそっと指を這わせる。はっと息を呑む彼に向かって、薫はいたずらっ子のように微笑んで見せ、えい、と彼の体を仰向けに布団の上に倒してやった。
「へ? か、薫ど……」
状況を飲み込めないでいる彼の上にまたがって、薫は彼の唇を自身のそれで塞いだ。はしたないとは思わなかった。ただ、自分はこうしたかったのだ、と思いながら彼の唇に何度も自身のそれを押し当てる。
ふと彼の掌が薫の後頭部を押さえつけていることに気づいた。慌てた薫が離れようともがこうとも男はそれを断固として許さず、それどころか薫の唇を舌で器用に割って入ってくる。紅い侵入者は我が物顔で、そのくせ妙にやさしい動きで薫の歯列をなぞり、ときに赤い歯茎を突いたりした。
突然の男の豹変の仕方に、薫はただただ驚くばかりだ。
やがてあまりの息苦しさに薫が噛み締めていた歯を解くと、これ幸いとばかりに彼は薫の舌を絡めとった。尚も続く執拗な、そして慣れない口付けに、とうとう薫は彼の胸を叩いて抗議する。やっとのことで彼が彼女を解放してくれたときには、薫の息はもうすっかりあがってしまっていた。
「け、剣心ッ!」
「いやー薫殿がいけないんでござるよ?」
羞恥と悔しさの狭間で真っ赤に頬を染め上げている薫は、剣心をぎろりと見下ろすが、彼のほうは実にひょうひょうとした眼差しで笑っている。
「それに男として押し倒されたままというのは、いささか情けないことであるし」
「だからってね! こ、こんな……く、口付け……!!」
「薫殿」
「何よ」
薫は憮然とした表情で答えるが、慣れない口付けにびっくりしたらしくその手が少し震えていることに剣心は気づいた。
「拙者が怖い?」
「怖いわよ!」
「おろ」
目一杯肯定されて、剣心は肩をすくませるより他ない。薫はそんな剣心の頬に再び両手を添え(とは言っても、今度はがっちり掴むといった感じではあったが)、鼻と鼻がつくくらいに顔を近づけて剣心の蒼い瞳を睨みつけた。
「薫殿?」
再び薫の目から滲み出てきた涙に剣心は慌てたように声を上ずらせて、濡れる頬を掌で拭ってやる。
「剣心、いなくならないでね。またいなくなったりしないでね。いなくなったりしたら、また追いかけてやるんだから。それからあんまり無茶しないでね。これ以上体に傷を増やさないで。こっちの寿命が縮むの。あなたのことを考えると本当に怖くて仕方ないんだから!」
嗚呼、と剣心は合点がいったように微笑んだ。先ほど薫が剣心の体を見て涙を流した理由も、傷に触れた理由も、わかった気がした。
「善処する」
「なにか怖い目にあったら、四の五の言わずにすぐにこの家に帰ってきて」
「うん」
「わたしを巻き込むわけにはいかないとかいうふざけた考えは捨てて頂戴」
「うん」
「絶対よ」
「約束する」
確かな言葉に安心したらしい薫はくてりと剣心の胸元に頬をよせた。もちろん、彼の上にまたがったままで。
(なんだか猫のようだな……)
「薫殿」
「なに?」
「いや、うん……」
この状況をいったい、彼女がどう見ているのか。いや、考えるまでもない。彼女のその安心しきった顔をもってすれば、いとも容易く想像できる。先ほどまでの濃密な空気がすっかり消えうせてしまったことに、剣心は戸惑うばかりだ。
(さぁて、どうしたものか…)
たかがあの程度の口付けで首の付け根まで赤く染まっていた薫を思い出し、剣心は胸の上でくつろぎ出した彼女に気づかれないよう、そっと溜息をつくのであった。


黒猫の下に十字傷の男 (るろうに剣心/2005.06.14/2007.05.03加筆修正)