どうぞ信号機は青のまま
覚悟していたとはいえ、三日間の出張から帰宅した家はとんでもないことになっていた。いったい三日でどうしてこんなに部屋が様変わりしてしまうんだろう。あんなに美しく整えて出かけたはずなのに。
もう怒る気も失せる。呆れはするけれど。
美咲はとりあえず荒れに荒れた部屋のなかから死んだように眠る主を発掘して、その額にただいまのキスをくれてやった。部屋を汚してくれたことを叱るよりも前にこうしてキスさえしてやれば、案外この男は素直に掃除をしてくれるということを美咲はちゃーんと知っているのだ。
うっすらと開いてゆく瞼をじっと見つめて、笑う。
「ただいま、ウサギさん」
ふいにえらい力で引き寄せられたのを、美咲はなんとか踏ん張った。だってこんな汚い床に倒れこみたくなんてない。せめてソファまで、と美咲は寝ぼけているらしいくせに抱きついたままちっとも離れない秋彦のおおきな身体を引き摺ってゆく。
やっとたどり着いたソファの上で、まるで幼いこどもをあやすように秋彦の髪の毛を梳いてやった。
嗚呼、家に帰ってきたんだなぁ、とほっと一息つこうとしたところで、美咲はぎょっと目を見開いた。視線の先、これ見よがしにセンターテーブルに積み上げられた文庫本のなかから一冊、手にとって、それが見知らぬ表紙だと気づく。もう新刊が出たのか、と美咲は遠い目をした。
薄い本は成人した男の手には小さすぎて、これはやっぱり女の子が読むもんなんだなあと改めて知った。
この本は白い小さな手にあってこそしっくりくる。た、だ、し、ひとたびページをめくれば、官能小説も真っ青な男同士があれやこれやと愛を育む文章が延々と続くのだけれど。こういうのを昨今の中学生が読んでいるというのだから。
(いやあ、世の中ってのは恐ろしいねえ……)
腹にぐりぐりと頭をこすり付けてくる男を好きなようにさせて、美咲はぺらりぺらりと本をめくってゆく。安穏と愛を育む男がふたり。一巻では、大学生にもなっちゃいなかった主人公は、新刊が出るごとに少しずつ歳を重ねて、成長して、いつの間にか大学を卒業して、最新刊じゃあ作家である恋人の家で家事手伝いなんぞをやっている。幸せそうで何よりだ。暇さえあればエッチして、愛を確かめ合って、喘いで、啼いて、ときには喘がせて。つまりエッチしかしてない。
(……なんかまたすんごい描写を見つけたぞ。なになに? え、えね、えねまぐらって、なんぞや??)
もう昔のように 「人を勝手にモデルにしてあんあん喘がせてるんじゃねえぞ、この糞BL小説家ぁああ!」 と秋彦を怒鳴りつけることもない。慣れた。
(なに、なんなの、なんなの、ちょ、なに、これ……!)
毎度毎度、趣向をかえてくるベッドシーンには目から鱗がぼろぼろと零れ落ちてくるが。そっちの世界はつくづく奥が深い。
「なにをぶつぶつ言ってるんだ」
「ん?」
美咲は圧し掛かってきた体温に、改めて意識を向けた。
美咲が秋彦の本を見てうんうん呻っている間に、秋彦はしっかり目を覚ましていたらしい。
無視していたわけじゃないのよ。ただちょっと意識が飛んでいただけで。――そういうのだけれど、納得がいかないらしいおとなげないおとなが一匹。ぎゅうっといっそう体重をかけられちゃ、重くて堪らない。まるでひっつき虫だ。抱きすくめられているといよりも、ひっつかれている感がどうしても拭えない。
「ねえ、ウサギさんは、そんなに俺にニートになって欲しいの」
たとえば、この本のなかの《美咲くん》のように。笑い含みに問えば、こたえは返ってこなかった。身体を拘束する腕の力が強くなるだけだ。
「仕事、やめて欲しい?」
やめるつもりなんぞさらさらないけれど、ちょっと意地悪に尋ねてみる。
「……こんなに立派に育っちゃって、俺は寂しいよ」
寂しいだなんて。そんな殊勝な言葉をこの唯我独尊男が臆面もなく言ってのける日がくるとは……!
美咲はあははと声をあげて笑った。
「この前、兄ちゃんが、ウサギさんに俺を預けてよかったなあって言ってんだ」
途端に秋彦が渋い顔をして、嘆息をついた。
兄を引き合いに出すと、少し、宇佐美秋彦の良心が疼くということを美咲は承知している。
ピンク一色の本が一般書店に並んでしまうような世の中になっても、やっぱり男同士でにゃんにゃんする人種に世間の目はまだまだ冷たく。ましてやそれが身内や友人のこととなれば、ショックも大きいだろう。だから、美咲たちは美咲の兄に自分たちの関係を未だに告白できないでいた。
でもなあ、と美咲は思う。そろそろ、兄に言ってしまってもいいんじゃないかなあ、とそう思うのだ。
頑なに告白を拒んでいたのは学生時代の美咲だった。そして、先に腹をくくったのも、何故か美咲だった。秋彦はというと美咲が腹をくくった途端に、消極的になった。曰く、おとなは怖がりなんですよ、だそうだ。
(そういうもんなのかねえ……)
美咲にはよくわからない。わかる様な気もするけれど、いや、やっぱりまだわからない。
「いつか、いつかね。言えたらいいなあと思うよ」
秋彦は答えなかった。
「別にさ、俺たちと兄ちゃんの間にわざわざいらぬ波風たてようってわけじゃないんだけど。言えたらいいなあとは思うんだ」
恋人はせっかく綺麗にした部屋をかたっぱしから汚くしてゆく無精者で、えろいことばかり考えている常春男で、強引で、自尊心が強くて、自意識が過剰で、かと思いきやとんでもなく臆病な面もあわせもつシチ面倒くさい男だけど。最高にやさしい恋人なんだよ、兄ちゃん。彼につりあうようにと、いつからかそんなことを考えながら今日まできたんだよ、兄ちゃん。――そんな風に兄に話せたら。
「美咲」
むっつりと黙っていた秋彦がふいに口を開く。
「んー?」
「あんまり恰好良くならないでくれよ、俺が敵わん」
美咲は大笑いしながら、自分の心がほっこりとあたたまってゆくのを知る。大好きだよウサギさん、そんな気持ちを込めて、不機嫌もあらわな恋人をきつくきつく抱きしめたのだった。
純情ロマンチカ|title by ダボスへ|090322