あじさいの路



大粒の雨が土のグラウンドを穿つ。豪雨だ。終業間際に突然に降り出した雨はあっという間に激しくなり、今は大雨洪水警報が出されているとか。せっかく咲いた紫陽花は今頃悲鳴をあげていることだろう。
この豪雨で放課後の部活動は中止になったというのに、帰宅部の沢田綱吉はひとり、教室で数学のプリントともうかれこれ二時間以上にらめっこをしていた。
ごろごろと空が鳴く。顔を上げ黒い空を見やる。空が光る。教室内の綱吉をかっと照らす。稲妻が落ちたのだ。間髪入れずにがしゃがしゃとひどい音が耳をつんざく。雷は、近い。
嘆息をひとつ。二時間の格闘の末、倒せた問題は四分の一にも満たない。やる気ばかりが削がれてゆくのだから、どうしてくれよう。とはいえ、もともとやる気も何もあったものではなかったが。
プリントもシャーペンも放って窓際に寄って、窓を開けると、ぶわっと雨風が吹き込んできた。慌てて窓を閉めたものの、顔はびしょびしょだった。このたった一瞬で! こんななかをえっちらほっちら帰れと先生は言うのか。傘もないのに! それとも小テストで10回連続0点を取るようなバカモノは、雨の中ずぶ濡れになって帰って然るべきだとでも言うのか。
うう……先生のバカヤロー!
心の思うまま。叫んだと同時に教室の引き戸が開いた。ひぇっと綱吉は飛び上がり、そして扉の脇に佇む見知った顔を認めて、後ずさった。
なんであんたが此処にいるの!?
綱吉の叫びを黙殺して、彼は机と机の間を器用にすり抜けながらずかすがと綱吉に近づいてきた。数学の教師ではない。そんなものよりもっと性質の悪い人間が、すぐ、そこに。
「ひ、ヒバリさ……」
「居残り?」
風紀委員の腕章をはめた雲雀恭弥はすっと目を細めて綱吉に言った。
なに? 俺、なにかした?
「あの?」
「居残り?」
今一度問われて、綱吉は押し切られたように肯いた。
「は、はあ……」
「課題は?」
「終わってませんが」 それがなにかあんたに関係ありまして?
「まだなの?」
「さ、最終下校時刻はまだ……」 の、はずだが。
「貸して」
ホワッツ!?
目を点にしている綱吉の腹に、すかさず一発蹴りが入る。綱吉の身体は紙切れのようにあっけなく吹っ飛び、机と椅子を四つほど巻き込んで倒れ込んだ。
(いいいいたいいい!!!)
正直、痛いなんてレベルじゃあない。綱吉は眦に涙を溜めて唸った。
なんなの。なんなのよ。俺がなにしたっていうの!?
「ひ、雲雀さんっ」
「なに?」 なに? でなくて!!
「はい」
「何が!!」
「プリント」
差し出されたプリントに綱吉はぶっ飛んだ。解答欄がきっちり埋まっている。空欄だらけだったプリントがきっちり全部うまってるのだ。
「君、馬鹿だねえ、こんな問題も解けないの」
綱吉は赤面して声を詰まらせた。
馬鹿ですよ。どーせ俺は!! でもあんた、いったいいつのまに!! マジシャンかよ! おかしいんじゃないの!?
なにをしてるのさ、と言われて綱吉はきょとんとした。心の中の罵詈雑言を聞かれたのかと冷や汗を垂らしたが、そういうわけでもないらしい。困惑していると、学生鞄を押しつけられた。
「早くお帰りよ」
「え」
「このプリントは僕が代わりに提出しておく」
そして廊下に放り出された。抗う余地なんて――もちろんない。ロッカーのなかの体操着を持って帰りたかったのですが、とは言えなかった。


綱吉は、げた箱を閉めたところではじめて気づいた。昇降口に中学生の学びやには似つかわしくない影がある。
「ランボ?」
影がはっと振り返る。うたた寝していたらしい。瞼が開ききっていないランボは、綱吉を認めるなり得意げに青い傘を差し出した。綱吉の愛用の傘だった。
「もってきてやったんだもんね!」
ランボの身丈と変わらない大きさの傘は、ここまで引きずってきたのだろう、泥まみれだった。
ランボの牛柄スーツも泥と雨水でびしょびしょだ。一応牛柄の幼児用の傘をさしてきたらしいが、どうせろくなさしかたをしなかったに違いなかった。
ああもう、と綱吉はハンカチでランボを拭う。口元に涎のあとまでつけているではないか。しかしまあこんな昇降口でよくぞ眠れるものだ。
「うあランボおまえ、涎がべったべったしてるぞ! なんか葡萄くさいし!」
「アメをくれたんだもんね」
「だれがっ」
またこの子は見ず知らずの人間からものをもらって!
「ないしょ」
「あ?」
「やくそくしたんだもんねないしょだってヒバリとやくそくしたんだもんね」
(ヒバリさん?)
はっと振り返った。しんと静まり返った下足室には綱吉とランボ以外誰もいない。誰も。
そこに雲雀がいるような気がしたけれど、気のせいだったらしい。ふいに、先ほど蹴られた腹のあたりがしくしくと痛んできた。
どうしてか、笑みがこぼれた。
「らんぼさんはなにもいってないもんねっ」
慌てているランボを抱き上げて、綱吉は黒い空に向けて青い傘をさした。
「いってないっ」
「わかったよわかったよランボ。傘ありがとうな」
豪雨のなかに足を踏み出し、校門の手前で校舎を振り返ってみれば、明かりのついた応接室を認めた。どろんこのこどもにアメを与えてやった雲雀のそのとき姿を思い浮かべ、綱吉はまたひっそりと笑った。
家路は紫陽花色に染まっていた。ランボは、ブドウ色だと主張して止まなかったけれど。

リボーン|071030大阪のホテルにて