ウミガメと橙の野山
「さ、わだ!」
裏返った声に、沢田綱吉はきょとんとした風な面持ちで振り返って、そうして困ったように笑った。微かに赤らんだ雲雀恭弥の頬を、確かに認めたからだろう。雲雀の頬が血色よく見えるのは、並盛を覆う夕焼けのせいだけではあるまい。
残念ながら、雲雀は照れているのではなさそうだった。綱吉にとって都合の良すぎる解釈は、雲雀の眉間に深々と刻まれた皺によって見事に阻まれていた。雲雀は、怒っているのだ。とても。ものすごく。綱吉に対して。
「僕を試すの」
君ふぜいが。
雲雀が、すぐそこで怒っている。肩を戦慄かせている。とても珍しい光景だ、と綱吉は思った。
漆黒の双眸が烈火のごとく燃え盛っている。夕日の色よりも濃く、血の色よりも鮮やかに。綺麗だ。とても、とても綺麗だ。
赤は人を刺激する。どっどっと高ぶる感情を深呼吸ひとつで抑えつけて、綱吉は足元に視線を落とした。履き潰したスニーカーの先から長い影がぐんと伸びている。そこで怒る雲雀の足元に向かって伸びている。視線を動かす。雲雀の靴は黒いローファーだった。その黒いローファーから伸びる雲雀の黒々しい影は、さらに後ろへと伸びている。雲雀の背中の向こう側に学び舎を認めて、綱吉はきゅっと口元を結んだ。身体が震えるのは、決して恐怖からではなく……。きっと、抑えつけようとした感情が出口を求めて全身の血液中で暴れまわっているからだ。綱吉は腹にぎゅっと力を込めて、怖い顔をしている先輩の顔を真っ向から見つめ返した。
「旅に、誘っているだけです、ヒバリさん。イタリアのお洒落な旅」
「ヒバリさんが、行きたくなければ、それで構いません」
「あれだったら、一緒にどうですかっ、て思っただけです、それ、だけです」
「旅に期限はありません、あなたが、常に俺と一緒にいる必要もない」
「もし、ヒバリさんが旅に途中で飽きたら、並盛に戻ってくればいいんです」
切れ切れの言葉に、雲雀の顔がますます赤くなってゆく。
「俺は明日にでも行きます。……ヴェ、ヴェニスが沈む前に、一度くらいは行っておかなきゃと思いますし……ね、猫も沢山いる、し」
言い訳染みた台詞に、綱吉は自ら息苦しさを感じた。
はん、と雲雀は鼻で笑った。 「君、イタリア語を話せるわけ?」
「いや、全然」
まさかまさか。とんでもない、とでも言いたげに綱吉は首を横に振る。
それらはこれから死ぬ気で習得しなければならないだろうということを、綱吉は知っていた。綱吉の旅の終幕はきっと遠いイタリアの地でひかれることだろう。数年後か、数十年後か。或いは、数ヵ月後か。もうこの並盛に綱吉が帰ってくることは、ない。
願わくば、旅が穏やかなものでありますように、と。どうか、どうか、あまりベソをかかないですみますように、と。人を傷つけずに、大切な人たちを守って、手を取り合って。どうか、神様。
「イタリアに行ってどうするの」
「ローマ・カトリック教信者にでもなるの」
「君は、どうしたいの」
赤い並盛を背景に佇む雲雀は美しい。中学の頃よりもぐんと伸びた背を、広くなった肩幅を、少年らしい丸みが削がれた顎のラインを、今日までの雲雀の小さな小さな変化を綱吉はひとつ残らず拾ってきた。
並盛中学校の伝説となった風紀委員長は、並盛高等学校でも生きた伝説と化しつつある。どこぞのヤクザを壊滅させただの、どこぞの暴走族を裏山に埋めただの。雲雀が大学入試の全国模試で脅威の点数を叩き出したと噂で聞いたのは、つい最近のことだ。以来、一層雲雀を遠く感じるようになったのは、綱吉の僻み根性故か。それでも、雲雀の指にいつだって雲を模した指輪がはめられていることを、綱吉はたしかに知っていたのだ。
「……欲しいって言いなよ」
話す雲雀の口内に、真っ赤な舌がのぞく。ぞくぞくと綱吉の背に電気が走る。閉じた瞼の向こう側に火花が散る。身体に火がつく。熱い。夕日に焼かれるようだ。
「僕が欲しいってっ」
そうしたら、君の望むとおりにヴェニスにだってポンペイにだってついていってあげよう。雲雀は叩きつけるような口調で言った。たとえ、海嵐のなか、火山のなか。どこにだって。この指に指輪がある限り。
――でも綱吉の超直感が、雲雀恭弥という人がいつかその指輪を捨ててこの街に戻ってくるであろうことを、警報のように告げてくるので。
「さわだ、つなよし!」
燃えてしまえダメツナ、と綱吉は思った。イタリアなんぞ行かずに、今、この場で、この人と一緒に燃えて、燃えて、燃え尽きて、灰は並盛の空を舞って。
その願いは、ダメツナの最後の悪あがきだ。
070918
Present for ミキさん
素敵なイラストをありがとうございました!
Special thanks フルッタジャッポネーセ
「パプリカみたいにあざやかで、時にきみは鮮烈に」
「たとえば燃えて、ひとしずくの灰になろうとも」