呆ける彼の腹にとりあえずトンファーを叩き込んでおいて、雲雀恭弥はドン・ボンゴレの執務室を逃げるようにあとにした。十代目ボンゴレは追いかけてはこなかった。
追いかけられるわけがない。何せ雲雀は本気の本気で彼にトンファーを叩き込んだのだ。いくらお強くていらっしゃると巷では評判の十代目ボンゴレといえども、あれだけまともに雲雀の一撃を喰らえば、そうそう簡単に起き上がれるはずがない。
だから、ボンゴレは雲雀を追いかけることができない。そうとわかっていても、雲雀は赤いビロウドが惜し気もなく張られた廊下を駆け抜けていった。
頬が熱く、手が震えていた。こんなことは、雲雀の人生において、きっと初めてだった。
一方、件のドン・ボンゴレ沢田綱吉は、己が執務室のソファの上で悶絶していた。噛み締めた奥歯がみしみしと嫌な音を立てる。額と掌には脂汗、腹は激痛を通り越して感覚が鈍ってきている。
ちょ、ちょっとこれヤバクない? マジ、ヤバクなーい!?
おちゃらけてみても痛みはちっとも引かない。痛い。痛すぎる。最近少しばかり“自分は強いんじゃなーい?”と調子になりつつあった綱吉には大変強烈で、ショッキングな一撃だった。
それにしても、ふつう、いくら気心が知れた仲とはいえ部下という立場にある人間が、忠誠を誓うべきボスにこんな仕打ちをするのか。してよいのか。――が、悲しいかな、雲雀恭弥という人は“ふつう”だとか“一般的”という言葉からは激しく逸脱なさった方だった。今更の話である。そもそも雲雀が綱吉に忠誠を誓ったことなど一度もない。これも今更の話である。
それでも、雲雀恭弥のことを綱吉はそこそこに信頼していた。彼は獣のような人だけれど、本質的に悪い人ではないのだ。ただ少しばかり、血が好きで、顔つきが凶悪で、暴れまわるのが好きで――そんな程度なのである。
それに雲雀は何だかんだと面倒見が大変よろしい人だった。いきなり飛んでくるトンファーも、ことあるごとに吹っ掛けられてくる辛辣な言葉の数々も結局は、愛の鞭なようなものだった。おかげさまで、今となっては綱吉はこんなに立派に育った。雲雀のおかげだけでは決してないけれど、しかし確かに雲雀は綱吉を育ててくれた人間たちのうちのひとりだ。そして、それを、雲雀本人は意識はしていない。そもそも雲雀は意識的に何をやろうとか、こうしていこうとか、あまり考えない人だ。本能と欲望の赴くままに、寝たきゃ寝るし、食べたきゃ食べるし、暴れたければ暴れる。雲雀に悪気は決してない。本質的に悪い人ではないというのは、つまりそういうことであった。ただ彼が台風のような存在であるという事実は、どうしたって変えようがないのだが。
うう……痛いよぉ。
台風被害にあった男は、呻いた。腹を抱えて、腹の痛みはひかない。もうなんてことをしてくれるのよ。涙も出てきた。痛くて泣くだなんて、本当に何年ぶりの話だろう。
綱吉は、今は遠い、極東の島国での出来事を想う。
色んなことがあった。色んなことが変わった。変わらなかったもののほうが少ない。綱吉自身、自分が変わったという自覚は十二分にある。リボーンも、山本も、獄寺も、その他の皆も、それぞれに変わった。
だけど、どうしてだろう。雲雀恭弥という人だけは、綱吉のなかであの学ランのイメージと今でも直結する。雲雀は、綱吉のなかで変わらなかった少ないものの、その少ないもののうちのひとつであった。そうであったはずだ。
――ねえ、僕は、君のこと、好きなんだけど。
まさか。
まさか、あの雲雀恭弥が、あんなことを云い出すだなんて。
気でも狂ったかなあ。そうかもしれない。さすがの雲雀さんも、年中血の匂いを嗅いじゃって、とうとう気がふれたのかもしれない。そうだ、そうに決まってる。だって云ったあとの雲雀さんの顔ってば、もう……! 自分で自分に驚いてるみたいだったもの。あれじゃあ、俺だってびっくりするってば。
あれは、人類愛や家族愛の告白なんぞではなく、もっと、生々しい――嗚呼!!!
そして、あてつけがましく、人の腹にトンファーを叩き込むのはいただけない。あれじゃあ云い逃げも同然じゃないか。
じわりじわりと涙が溢れてくる。痛みによる生理的な涙とは違う、もっと熱い、感情を伴った涙だった。
痛みで声も出ない自分を放って、部屋を出て行ってしまった雲雀の背中を、綱吉は思い出す。逃げるように部屋を出て行った背中。雲雀のあんな背中を見たのははじめてだった。傷ついた綱吉を雲雀が放っておいたのも、はじめてのことだった。
ショックだった。
そうだそうだ。云うのを忘れていた、と綱吉が徐に雲雀の手をとったのは、それから四日後のことだ。反射的に綱吉の手を振り払おうとした雲雀を、綱吉は笑顔とその細い腕には似つかわしくない力で黙殺した。
逃がすものか。
綱吉は笑顔の下で少しばかり――否、かなり、怒っていた。結局、腹には大きな痣が出来てしまったし、痛みはまだ完全にひかない。それに、雲雀がこの四日間、あれっきり――あの衝撃の告白劇の日から――綱吉の部屋にただの一度も訪れなかったことも怒っていた。
「あのね、俺、遺言状に書き足すのを忘れちゃったんですよ、ヒバリさん」
遺言状……。反芻する雲雀の顔は、呆けているようにも見えた。少なくとも綱吉にはそう思えた。今なら死ぬ気のパンチのひとつくらいはその腹に叩き込めそうだった。まあ、今日のところは勘弁しておいてあげよう。何せこれから大仕事が待っている。貴重な戦力をボンゴレ自ら削ってしまうだなんて、馬鹿な話だ。
「ええ、遺言状です」
大仕事の前に必ず十代目ボンゴレたる綱吉が、そういう書類をしたためていることを知らない雲雀ではない。死を前提に動くなど、雲雀には到底理解できる行動ではなかったが、一方で綱吉がその辺りの始末をしっかりしておかないと、後々まわりの人間が大変な迷惑を被るということも理解できていた。
自由気ままに生きて死ぬには、綱吉はその細い両腕で多くのも抱えすぎている。このボンゴレという組織にしろ、莫大な金にしろ、その他諸々。綱吉だけが自由に扱うことを許されたそれらは、実際は“自由に扱える”などという生優しいものでも単純なものでもなく、結局、綱吉を縛るものでしかなかった。
綱吉に、自由は少ない。彼がこの状況から抜け出せるのは――或いは、死んだあとだけかもしれない。かといって、自由に“死ぬ”という行為にいたることも許されないのだから、自由はないも同然だ。
遺言状を書くという行為にたいして、綱吉が何を思っているかは、雲雀にはわからない。いや、しかし、何も今まさに敵陣に乗り込もうというときに――なんて物騒なことを云う。
無言で顔を顰める雲雀に、にこりと綱吉は笑ってみせた。
「とりあえず俺の死体はあなたにあげますよ」
もらってくれますよね?
20歳を過ぎても乳臭さの抜けない青年の瞳は、けれど、もうかつてのように小動物の如く頼りなくはない。
喉が震えた。頬も熱い。
「……それは、君なりの答えだと思ってもいいのかな?」
ふぅと熱い息を肺から押し出した雲雀に、綱吉は首を傾げてみせる。
「さあどうでしょうか……。まあとりあえず三日三晩熟考した結果、こういう結論に至ったわけです」
やたら畏まった話し方で、綱吉は続けた。
「残念ながら、俺にはその手の趣味はないので、男と乳繰り合うなんて死んでも嫌ですけれど。だけど、まあ死体になっちゃあ、あーんなことやそーんなことされても俺にはわからないですしね。死体も有効活用しなきゃあ」
受け入れられたのか、拒絶されたのか、雲雀にはよくわからなかった。
「ヒバリさんは屍な俺をせいぜい愛しんであげてください。その間俺は、この世に生まれ変わってくるまで、地獄で平穏なハッピーライフを楽しんでますから」
「地獄?」
「そりゃあ、俺がいまさら天国にいけるはずもありませんし……」
そう云って綱吉は空を仰ぐ。空には物騒な色をした雲が浮かんでいた。
一方、雲雀は、そんな綱吉を見つめながら、考えていた。
果たして自分は、屍となった彼を、愛せるだろうか。――愛せる。きっと愛せてしまえる。でも決して満足は出来ないだろう、とも思った。
握られたままの手はひどく熱い。これは雲雀の体温か、それとも綱吉のものか。いずれにせよ、その熱はひどく雲雀の胸を焦がした。
人は死ぬと21g体重が減るとか。(20070406)