強かに打った背中と腰がずきずきと悲鳴をあげる。人が帰宅するなり、腹の上に圧し掛かってきた恵に、真一は呆れたようにため息をつき、そして眉間に皺をよせた。
「で、おまえは何をやってるんだ」
「何って……ナニですか?」
ぼかりと頭を拳骨で殴ってやれば、恵は何するんデスかー、と涙ながらに訴えてくる。本気の涙なのかそれともただの演技か。判断の付け難いところが、野田恵の野田恵たる所以か。まあ8割方、本気なのだろうけれど。それでも100%本気だと断言しきれないのは、真一自身、未だにこの女の思考回路を理解しきれていないからに他ならない。
ふだんから奇声をあげたり、女とは思えないほど酷い生活をしたり、真一にストーカーまがいのことをしてみたり。かと思いきや、ときどき人の核心をずばりと突いてきたりする妙な女。もうかれこれかなりの付き合いになるが、未だ彼女の思考は真一にとってブラックホールそのものであった。
そしてこんなブラックホール女が、自分の歴代何代目かの恋人だというのだから。しかも現在進行形で交際日数の記録をちゃくちゃくと塗り替えているというのだから、世の中どうかしていると思う。世の中というか、一番どうかしているのは、このオレか。真一は天井を仰ぎ見た。
「とりあえず、そこをどけ。重い。苦しい。窒息する。おまえは人を殺す気か」
「こ、殺してさしあげます……!!」
鼻息も荒く答える恵に、ほう?と真一は意地悪く右眉をひょいと吊り上げて見せた。やれるものなら、やってみろ、と言わんばかりの表情だ。
「くー! 先輩、のだめを見くびらないで下さいヨ! 志保子ママ直伝のテクニックで……!!!」
「志保子ママって誰だよ」
「クラブ・ワン・モア・キスのママですヨ!」
あー、そういえばそんな名前だったっけか、と気のない返事をする千秋。完全になめられているのは、流石の恵にだってわかる。わなわなと震える手は侮辱されたことに対する怒りの感情を表しているのか、それとも緊張からくるものか。
「で、直伝のテクニックを披露してくれると?」
「そうデスとも!今日教わってきたばかり。ピチピチのほやほやデスよ!」
ああ、そうかい。真一が再度ため息をつくのを合図に、恵はいよいよ真一のシャツに手をかけた。一個・二個・三個。パチパチとボタンを外していく女性にしては大きな、ピアニストの手。
パチ。
パチ。
………。
「おい、止まってるぞ?」
真一のシャツのボタンを外し終えたところで、完全に動きを止め、そのまま固まったように動かなくなってしまった手。見上げれば、可哀相になるくらいに頬を高揚させた女。いつもは乙女らしい恥じらいの“は”の字もないというのに、今日という日はどうしたことか。まあ恥らう云々の前に、ふつうの乙女だったら、人の帰宅を狙って腹の上に圧し掛かってきたりはしないだろうけれど。
「な、なんで抵抗しないんデスか………」
おいおいさっきまでの威勢はどうした。真一は面白そうに口元を歪める。 「いや、なんとなく。たまには主導権を譲ってさしあげようかと思いまして」
「抵抗してくださいヨ」
「なんで」
「なんでって……なんででしょう?」
「オレに訊くな。ほら、志保子ママのテクニックはどうした?」
「………」
「恥ずかしいのか」
「そんなんじゃぁ……」
「あるんだな」
「ありません!!」
「じゃあ頑張れ」
にやにやと笑う真一の、いやらしいこといやらしいこと。しかもどさくさ紛れに掴まれたまましっかり固定されてしまった腰はどうしたことか。
「ほら、続きは?」
面白そうに口元だけ緩めて笑っていた真一であったが、やがて恵のまわりを取り巻きだした不穏な空気を感じ取って、笑顔を引っ込めた。冷たい汗が背中を伝う。
「先輩なんて……」
震える肩が意味するものは?
少し苛めすぎたか。真一がそんなことを思っている間に、ボタンを外し終えて停止していた恵の手が再び動き出した。
「の、のだめ………?」
「先輩なんて……こうしてやります―――――!!!」
「!?」
(キレタ!?)
やばい、と思ったときにはすべてが遅かった。
「お、おい、のだ……」
「くらえ、志保子ママテクのだめ改良バージョン!」
「うわ、いきなり何す…! おい、やめ! ……うあ……ちょ……っ……あ……ぅ」
その夜、千秋真一のマンションから世にも恐ろしい断末魔の叫び声と女の奇妙な笑い声が響き渡っていたとか。そんな話が近隣住民の間で噂されていたらしい。


Can You Kill Me ? 050326