湿っぽい風が境内を吹き抜けてゆく。御焼香の煙たさに野田英知(のだえいち)は鼻の上に皺を寄せた。
 御香典の表書きの書き方すらろくにわからず、学友どもと共に自分たちの常識のなさに絶望したのは、つい昨夜のことだ。結局、親の知識を借りて、式になんとか漕ぎつけることができたわけだが。
 見上げた空は思っていたよりもずっと高かった。存外遠いもんだ、空ってものは。
 それにしても首を動かそうとするとよくわかる。首の根元あたりを圧迫する黒いネクタイが邪魔で仕方ない。肩が凝る。おとなは煩わしいことばかりだ。あと半年もすれば、野田とて毎日ネクタイを締める生活にどっぷりと浸かっていくことになるというのに、野田にはそんな実感がちっとも湧いてきやしない。
 まだ。まだ、もう少し。この阿呆みたいに気楽な身分でいたい。しみじみとそう思った。そもそも学生がお気楽であったと悟ったのも、わりと最近のことであるというのだから、情けない話だ。親は息子ののんびり具合に、ため息ばかりつく。こんなんで社会に出て大丈夫なのか、と。そんなこと、野田にだってわからない。
 
「野田くんははじめて会うよね。この子、私のこども」
 にしし、と笑ってヨリコは言った。紅のひかれた唇の下から、白い歯がのぞく。ヨリコの薄っぺたい胸にぎゅっと抱きしめられた赤ん坊も、にしし、と笑った。まだ歯も生えちゃいない、くにゃくにゃの赤ん坊だ。薄桃色のベビー服の襟元からのぞく首は、ちょいと力を入れたら、ぽきゅりともげちまいそうだ。
 しかしまあ、赤ん坊って生き物はどうしてこうも猿のようなのか、と野田は思いながら、まじまじとヨリコのこどもを見つめた。
 赤ん坊の目尻の笑い皺の入り方が、親にそっくりだった。それを抱く母親にではない。赤ん坊は父親のほうに瓜二つだった。おかしいかな、野田の知るこの赤ん坊の父親はノンフレームのメガネをかけたインテリ風の男で、とても猿とは似ても似つかない風体であったはずなのに。今の野田には赤い小猿とメガネのインテリの顔がだぶって見えて仕方ない。
「こいつ、男か?」
 間髪入れずに額に飛んできたデコピンに野田は呻いた。
「女です。女。オスにピンクのベビー服を着せるかい」
「でもさー」
 ヨリコの言い分はもっともだ。もっともだ、とは思うが。
「こいつ、そ……そ、っくり」
 だって、こいつ、あの男にそっくりなんだもの。
 言いながら言葉が咽喉に詰まってしまったのは、不覚だった。
「野田くん」
「なんでい」
 この期に及んでぶっきらぼうにしか受け答えの出来ない自分の幼さが、野田は我がことながら心底嫌になる。ヨリコの細い肩を男らしく抱き寄せてやれない自分の小物っぷりに反吐が出る。
 辛いだろう。キツイだろう。不安だろう。寂しいだろう。
 なんでもいい。なんでも。たった一言でも、くれてやることができたのなら、どんなにいいだろう。
「先生がね」
「お、おう」
「入院中も毎日のように、野田の卒論が心配だあ、単位も心配だあ、って言ってたのよ」
 思いもよらぬ話の流れに、野田は顔をしかめた。ここでそんな話を持ち出してくるか、ヨリコさん。
「うえーマジかよ」
「マジです。で、どうなの。ちゃんと進んでる?」
「まさか。いや、まさか。つかなんだよ、あの野郎、おまえにそんなことまで話してたわけ? 生徒のプライバシーだぞ、そりゃあ」
「だって、ほら。私、先生の奥さんだし」
「奥さん、奥さんも一応学生という肩書きを持ってらっしゃるなずなんですかねえ」
「あ、ほら。あたしは今まで真面目に学生やってきたからさ。土壇場で慌てたりなんてことしないわけです」
 にしし、と笑うヨリコに、野田は目を細めた。
 自分の大学時代という名の青春をまるまる奪っていった学友のヨリコの笑顔は、やわらかく、あたたかく。そんなヨリコを横から掻っ攫っれくれた三十路のインテリ男は、そのまま空の彼方に飛んでいってしまった。それは拍子抜けするほど、あっけなく。
 なんてこったい。こんなオチがあるか。あの男の訃報を聞いたときは、腰が抜けた。失恋のショックで、男友達と飲んだくれている時間があったのなら、ヤツのすかした顔を一発くらい殴っておけばよかった。今となっては、心の底からそう思う。
(つか、俺の卒論、どうしてくれるんだよ、指導教員)
 一発どころの話じゃない。最低十発は殴っておくべきだった。
 ため息をつく野田に向って、ヨリコの腕のなかの赤ん坊が無邪気に手を伸ばす。野田は手を伸ばし返そうとして、やめた。野田に向って伸ばされたと思った手は、そうじゃなかった。
 野田の頭の上、さらに上、空に向って、紅葉のような手のひらが伸びている。
 無垢な赤ん坊の瞳には何が見えているのか。
 そこに、何があるのか。
 誰か、いるのか。
 ヨリコの顔を見る。赤ん坊の手の先を眺めてるヨリコは、きゅっと唇を結んいた。堪えきれなかった涙が眦に溜まっている。そっと腕を伸ばして、ヨリコの頬を抓る。途端にぼろぼろと溢れてきた涙が、足元の土に染みを作ってゆくのを、野田は黙って見ていた。
 見ているか、と野田は心のなかで毒づいた。
 ソコで見ているか、インテリメガネの駄目教授。
 おまえのせいで、ヨリコが泣いてるぞ。愛した女をひとり泣かしておくたあ、とんでもない男だ。阿呆め。
 阿呆め。
(――俺も大概、阿呆だ)
 自分だって好きな女の涙ひとつ拭ってやれない。
 湿っぽい風が野田たちの横を吹き抜けてゆく。御焼香の煙たさに、けほりと咳をひとつ。野田はヨリコといっしょに泣いた。おとなっぽくしっとり涙を流すことも、かといってこどものように大仰に泣くこともかなわず、ただただ、ぐすぐす鼻水をすすりながら、泣いた。