稲穂うたう歌
夕飯の片付けもそこそこに家を飛び出していった三波颯之介博士の後を静が追いかけたのは、気まぐれではなく。颯之介がその直前までかけていた電話のなかで「青子」という固有名詞が登場したからだ。
血相を変えて国立科学研究所に飛び込んできた颯之介と、彼を追いかけてきた静を迎えたのは、数年前に研究所から去ったはずの加賀田青子博士、その人だった。汗を吸って額に張り付く金色の前髪を片手で掻き揚げながら、颯之介は青子のほうに足早に歩み寄る。眉間に皺をよせて明らかにうろたえている様子の颯之介に対し、青子のほうはいたって静かな表情だった。もともと物静かな人だった(ただし、颯之介と絡まない限りは、という注釈がつくが)、と研究所に勤めていた時代の青子を知る研究所の人たちは一様にして加賀田青子という人間をそう評価していたことを静はなんとなく思い出した。
弾む息をなんとか落ち着かせようとしている颯之介に青子は何か二、三言声をかけている。細い指で研究所の廊下の奥を指差す青子に、颯之介はいつになく真剣な面持ちで頷くと、疾風のごとく青子の指差すほうへと消えてしまった。
研究所内は走るなとあれほど注意しているのに、と静はそんなことをぼんやりと考える。
違う。――静のなかの人工知能が警告する。
今はそんなことを言っている場合ではない。
颯之介のただならぬ様子から非常事態なのはわかる。この研究所に加賀田青子博士がいるということからも、それは容易に想像がついた。
静は研究所の出入り口から動けずにいた。青子を視界に入れた瞬間に足の裏が瞬間接着剤によって床に張り付いてしまったかのような感覚に襲われたのだ。颯之介が青子の元に駆け寄ったときも、颯之介が研究所のなかに入っていってしまったときも、ずっと、ずっと動けなかった。
おかしい。
体に異常はないはずだ。
なのにどうして足が動かない?
そのとき、颯之介が消え去った方向を見ていた青子がふと静のほうに振り返った。
「早くなかにお入りなさい。自動ドアが閉まらなくてまわりに迷惑よ」
え?と静は自分の上下を見る。頭上には自動ドアのセンサー、足下にはやはり自動ドアの金属レール。慌ててその場を退いて研究所内に入る。静はセンサーを見上げた。ちかちかと小さなランプが光り、やがて自動ドアは小さな機械音をたてて閉まった。
恐る恐る青子のほうを見やれば、彼女は相変わらずの無表情で静をじっと見つめていた。ごくり、と静は唾を飲み込む。初めて対面する加賀田青子博士を前にして緊張している自分に気づいた。
「あ……あの……」
「こんばんは」
「あ、こんばんは……」
「三波博士に付いて来たの?」
「は、はぁ……まぁ……」
「丁度いいわ。あなたも一緒にいらっしゃいな」
は?と静が目をまるくしている合間にも、青子はすたすたと歩き出してしまう。
「あ、あのちょっと待ってくださ……!」
事態についていけないながらも、静は懸命に青子のあとを追った。
そこは静がいつも定期検査を受けている部屋だった。いつも静が横たわっているはずのベッドのまわりをとり囲む白衣姿の研究員たち。そのなかに颯之介の姿もあった。白衣と白衣の合間からちらつく金色の何かを視界にとめた瞬間、静は訝しげに眉を顰めた。
(人間……?)
いや、違う。アンドロイドだ。静のなかの人間かロボットかを識別するシステムが、そう判断する。
静の位置から、顔は見えない。静がかろうじて目にすることができるのは、金色の髪だけだった。颯之介と同じ、金色の……。
(まさか……)
「三波くん、どう?」
静と一緒に部屋に入ってきた青子が、ついと颯之介の横に並んだ。
「どうもなにもなぁ……」
と、颯之介は苦笑い交じりに青子を見る。
「ココに連れてくる前に、青子がほとんどやるべきことはやってくれちゃったじゃない」
突然の青子からの電話に慌てて研究所に来たのに、無駄足だったではないか。颯之介は肩を竦めた。
「ただの応急処置よ。で、どうなの?」
「問題はないと思う。応急処置と言いながらもここまでやっちゃうおまえの腕には本当に頭が下がるよ、まったく。腕はすぐに新調させるとして、他はうーん、念のため一通りの検査を受けさせておいたほうがいいかもね。離島じゃあできない検査もあるだろうし」
顎に手を当てながら颯之介は言った。青子も頷く。
「嵐もそれでいいだろ?」
「オッケー」
と、答えたのはベッドに横たわっているアンドロイドだった。
(あらし……)
目を見開く静に気づいたのか、ふと颯之介が静に手招きする。静がベッドに近づくと、ベッドの上の“嵐”が起き上がった。金色の髪と金色の瞳。颯之介をそのまま小さくしたかのような容姿。嘗て、フォトグラフで見たそのままのその姿。
(コレが、“嵐”……)
「嵐、こいつがおまえの弟分の静」
颯之介が静の肩に手を置く。嵐と呼ばれたアンドロイドは大きな瞳をくりくりとさせながら、じっと静を見つめた。よく言えばまっすぐで曇りのない、悪く言えば不躾な視線に、静は参ったとばかりに颯之介を見上げた。眉を寄せて完全に困った顔をしている静に、颯之介はにっこりと笑ってみせる。
「おまえの兄貴だよ、静」
「じゃあ、俺たちは奥でちょいと嵐の検査の準備してくるからさ。おまえたちは兄弟のご対面でもしてなさいねぇ」
そういい残して、白衣の研究者たちも青子も皆、颯之介が部屋から連れ出してしまったのは、ついさっきのこと。部屋に残されたのは静とそして嵐の二体のアンドロイド。途方にくれたのは静のほうだ。もともと気さくとは程遠い性格の静であるから、いくら自分の兄貴分が相手とは言え、気まずく感じてしまう。
どうしよう、と思いながら静はとりあえず挨拶をしてみた。「はじめまして、静です」 と頭を下げれば、兄は 「どーも、嵐です」 と言ってにっと笑った。
「突然、俺と青子が来て、びっくりしただろ? いやー階段から転げ落ちちゃってさ」
「転げ落ちた?」
「そ、足滑らせて。そしたら、打ち所が悪くてさ」
と、嵐は腕のない左肩を撫でながら言った。取り外された嵐の左腕は研究所内で急遽、修理に出されているという。直るには二、三日かかるとのことだった。
「で、青子が慌てて俺を研究所に連れてきたの」
「慌てて……」
あの加賀田青子博士が? 慌てる?
「そ」
あいつ、慌てると面白いんだぜー、と嵐は屈託なく笑った。
なんというか。
なんというか、本当に颯之介のように笑う少年だ。さすがに颯之介をモデルにした第一期試作品(ファーストプロトタイプ)のことはある。階段から転げ落ちるアンドロイドなんてものも聞いたことがないが、おっちょこちょいの颯之介がモデルとなればなんとなく納得できた。ありえない話ではない。
三波颯之介にそっくりな第一期試作品“嵐”と、加賀田青子をモデルとした第二期試作品“静”。嵐が颯之介に似ているというのなら、やはり自分もまたモデルとなった青子に似ているのか。青子をよく知る研究所の人間には、「静クンを見てると青子博士を思い出す」 などと時折言われたものだが、静にはいまいちピンとこなかった。加賀田青子博士という人を知らなかった静にとってそれは当然と言えば当然のことかもしれないが。
そして今日、初めて青子に会って静が抱いた彼女の第一印象は“寡黙”。それにつきる。颯之介に比べて(というか、颯之介がふつうの人の三倍は五月蝿いからあまり比較対照としては好ましくないかもしれないが)、青子の口数の少なさたるや。しゃべったとしても、まず無駄がない。最低限の言葉だけを選んでいるようだ。
ふと 『言語には明確に伝わらない事以外に問題にすべき点は何一つない!』 という颯之介の言葉を思い出した。颯之介の言うように、青子の口数の少なさは明確に伝わるか否かの尺度で測ればなんら問題はなかった。むしろ無駄がない分、明確すぎるくらいだ。
颯之介と反対を行くタイプだな、と思う。あれで、彼らが嘗て恋人同士という関係にあったというのだから、世の中本当にわからないものだ。しかも颯之介に至っては未だに青子に対する想いを引き摺っているようだ。
「俺は平気だって言ったのにさ」
「腕がもげて平気だとは思えないけど……」
「あはは! まあね。でも、青子ならあれくらい直せないこともないんだ」
加賀田青子博士は嘗てロボット工学の権威だった。10年前、小さな島に嵐とともに移り住んで、電子機器の修理屋と通信講座の臨時講師をやりながら生計を立てているとか。
「君のことがよっぽど心配だったんだね」
「青子はそういうところ律儀だからなぁー」
「律儀……」
静が反芻した言葉に、嵐は頷いてみせる。
「颯之介から引き取った俺に何かあっちゃ大変、とでも思ったんだろうよ」
ふふ、と嵐は笑う。
「大切にされてるんだね」
「それは静もだろ?」
言葉につまった静を見て、嵐はまた豪快に笑った。やはり颯之介のようだ、と思う。なんだか体のどこかがぽかぽかとしてくる。口元が緩んでくるのがわかる。
ぎこちないながらも優しい静の笑みを見て、嵐はふと急に真面目な顔つきで、ずいと静に詰め寄った。
「なに?」
「うん、静の笑い方って、やっぱり青子に似てる」
頬にふれるあたたかなものが嵐の手だと知る。
「ずっとずっと会いたかったんだ、静。――俺の片割れ」
※
「まぁた懐かしい夢を見たもんだねえ」
高熱で意識の朦朧としている静の額に、きつく冷やしたタオルをのせながら嵐が笑う。えらく原始的な看病の仕方だけれど、静は嵐にこうやって甲斐甲斐しく世話されるのが嫌いではなかった。市販の熱さましのシートや、アンドロイド用の超強力解熱剤を使用されるよりずっとよい。――熱はなかなか下がらないが。
「俺たちがこうやって過ごすようになってどれくらいかな」
「数えるのも馬鹿らしいな」
日々を指折り数えてゆくのも馬鹿らしくなるくらい長い年月を、嵐とふたり、いっしょに過ごしてきた。
それでも電子回路に刻まれた当時の記憶はけっして色焦ることなく。今はもう儚い人となって久しい颯之介や青子の顔、声音、それらすべてを静は今尚鮮明に思い出せる。もちろん嵐も同じように、やさしかった人間たちの記憶を抱いて生きている。それがよいことなのか、悪いことなのか。たぶん、他のアンドロイドならこんなの耐えられない。人を愛して愛して愛してやまないアンドロイドにとって、死んでしまった人たちの記憶は鮮やかすぎて、だからこそ辛いのだ。
人の記憶のように時間とともに風化してゆけないアンドロイドのそれは、苛烈にアンドロイドの心を蝕んで。
かなしい、さみしい、くるしい。そんな思いばかりが摘みあがっていく。脳に刻まれた記憶が美しい分だけ、余計に。
「……嵐がいてよかったよ」
嵐がいなかったら、あの人たちを失ったかなしみにくれてきっと自分は一歩たりとも歩けなくなっていた。
「どうしたの、突然」
「僕に嵐をくれた颯之介と青子先生には感謝してるんだ」
うん、と嵐が笑って、静の頬を撫でる。
「静、熱出すたんびに、なんかあの人たちの夢見てるなあ」
「そうかな」
「そうだよ。なあ、なんか食いたいもんある?」
「キムチチゲ」
「あとで作ってやろう。ニラと豆腐たっぷりいれてな」
「眠い」
「寝ろ寝ろ。また青子たちの夢が見られるかもしれないぜ」
とろとろと眠りに落ちて行く。眠りの淵で、嵐が手を握ってくれたのを感じる。下手糞な歌が静の耳を擽る。静が笛で吹く「眠りの子守唄」の旋律だった。
なんてやさしい音だろうと静は思う。
仕事を全うして帰ってきたこどものアンドロイドたちに穏やかな眠りを与える静に、至上の安らぎと眠りをあたえてくれるのは、嵐。この世で唯一無二の片割れだけだ。
人形芝居|090322