「これが目に入らんかぁ!」
ずいと左手の甲をネウロの顔の前に突き出せば、ネウロは「あ、助さんだな」なんてすっとぼけたことをぬけぬけと云いやがる。
「格さんだ!」
この期に及んで律儀にツッコミを入れてしまう自分の性が悲しくて、弥子は呻いた。長年連れ添ったが故の癖は切羽詰った状況にあっても抜けないらしい。否、切羽詰っているからこそ、今まで培ってきたものが否応なしに滲み出てきてしまうものなのかもしれない、と弥子は思った。
げっそりしている弥子の眼先でネウロが嬉しそうに笑っている。ネウロが、笑っているのだ。ひどく嬉しそうに、笑っている。
そうか、そうか。ネウロはひとりで納得して頷いている。そうか、我が輩は……そうかそうか。ネウロは笑っている。我が輩は、弥子を。
そしてネウロは奇怪な笑顔のままにヤコを抱き寄せた。ぎしぎしと身体が軋むような抱擁に、弥子はいったい自分はどうしたらよいのかわからなくなってしまった。既に弥子の混乱は極限に近かった。
ネウロが? ヤコを? なんだっけ?
「ん? 貴様、シャンプーを変えたか?」
無邪気にデリカシーのない言葉を口にする魔人に、やさしくない抱擁を受けながら、弥子は自分の身体がひどく汚いものに思えてきた。
あと十年、魔人の行動が早かったのなら、自分はこの抱擁をきっと素直に受け入れていただろうと、弥子は思った。ご長寿の魔人はどうだか知ったことではないが、少なくとも自分はあの頃からずいぶんと遠くにやってきてしまった。そんな気がする。
「我が輩はいつもの匂いのほうが好きだ」
匂いの良し悪しなんてわからないくせに、魔人はイッチョマエに己の嗜好を主張する。
「なんであたしがあんたの好みに合わせなきゃいけない……って痛い痛い!痛いってば!」
むぎゅうと抱きしめられて、弥子はすかさず暴れた。手足をバタつかせて、駄々っ子のように暴れまわった。だのにネウロの抱擁は解かれない。ネウロもまるでお気に入りの縫ぐるみを抱えている子どものようだった。
「なあヤコよ、この我が輩が貴様のようなナメクジ人間を愛していると言っているのだから、ありがたく受け入れるというのが筋というものではないのか。そんな指輪なんぞに何の操を立てる必要があるというのだ」
「うるさい!」 瞬間、弥子はぱしりとネウロの手を叩き落して、くわっと叫んでいた。 「あんたに人間だの愛だのの何がわかるっての! 何を知ってるってのっ」
「知ったものか」
魔人はしれっと答えた。そして性懲りもなく弥子の髪に触れる。
「知りもしないくせにあんたはそういうことを言うか!」
「貴様のことなら知っているが?」
―――それで何の不足が?
絶句した弥子にネウロは悠然と笑いかける。
「貴様が本当は誰を愛して、誰を本当に欲しているのかも、我が輩はよおく知っているぞ」
ネウロが唇を弥子の耳に寄せて、囁いた。弥子の身体が戦慄いた。悔しくて、目の裏がどうしようもなく、熱くなった。
「喜べ、ヤコ。我が輩は貴様を愛している。貴様も我が輩を愛してる。ふたりで目指す未来は薔薇色の世界だ」
ふふふ、と瞳孔の開ききった瞳を細めてネウロは笑った。
「薔薇色だぞ、ヤコ」
薔薇色のなかを手を繋いで浮遊しているネウロと自分をぽっと想像して弥子は吹きだした。同時に、ぽろり、と涙が一緒に零れ落ちた。
慌ててそれを拭った弥子の頬に、いつの間にか鳥怪人の姿になったネウロが嘴を寄せる。
「泣きたいのなら泣けばよい。涙のあとは虹になるんだそうだ。薔薇色も捨てがたいが、虹色の未来も悪くない」
そうは思わぬか? ヤコ。
ビューティフル・ワールド 061118