待て。待て待て待て。
煤けた天井はよく見慣れたもの。背中にあたるやわらかい感触は、接客用のソファ。そして己が身体に圧し掛かる冷たい美貌は、魔人とかいう化け物。
待て。待て待て。待てってば!
この人外魔境をいったいどうしてくれようか。
「ネウロ、待って。ちょっとストップ。あのね、ネウロ? いい、ネウロ? こういうことはね、愛とか恋とかそういう感情を持ってる人間だけが許される行為なのよ」
シャツの下を弄っていた無遠慮な(そのくせ妙に無駄な動きのない)冷たい手(黒い手袋装着)が、ブラジャーにかかるほんの一歩手前で動きを止めた。止まってくれただけで奇跡だ。そしてこの奇跡をみすみす逃すような、弥子でもない。
「愚かな人間に許されて、我輩には許されないと?」
弥子はすぅと不快そうに細められた魔人の目を見上げて、ああ、この戦法はやはり拙(まず)かっただろうかと後悔した。やたら矜持が高いこの魔人を少しでも貶めるような言葉は、滅多に云ってよいものではない。とりあえず話のもっていき方を変えよう。魔人の指がふだんは外に曝されないはずの肌に食い込むの感じながら、弥子はぐっと息をつめた。
「つ、つか、あんた、こんなことして何が楽しいの」
「貴様は楽しくはないのか」
「いや、強姦されそうになって、楽しい人間が何処にいますか」
「強姦?」
それは心外だと魔人は肩をすくめてみせる。この魔人は、いったいいつの間にこんな人間臭い芸当を真似するようになったのだろう。
「貴様は我輩のことが好きなのだろう」
弥子の耳に甘ったるい息を吹きかけながら魔人が云えば、途端、弥子の頬に微かな赤みがさす。それは羞恥のようでいて、屈辱ともとれる表情だった。
“好き”という気持ちのなんたるかも知らないくせに。知識として持っていたとしても、魔人のあんたに理解できるわけもないくせに。
「……あ、あれは忘れて頂戴と頼んだはずです」
「貴様風情が、我輩に命令するか?」
「命令じゃなくて頼んでるんだってば」
アルコールの勢いにまかせて長年隠し続けてきた本音をついうっかり吐露してしまった数日前の出来事は、出来ることなら綺麗さっぱり消し去りたい過去だ。酒臭くとも本気だった告白を鼻で笑って一蹴してくれた魔人を思い出すと、胸がじくじくと痛む。到底受け入れられることはないとわかりきっていた恋心であったけれど、実際拒絶されるとなると、やはり悲しいものは悲しいし、辛いものは辛い。
それに、いくら極悪非道な、それこそ血も涙もない魔人とて、弥子が傷ついていることくらいは知っているはずなのだが。知っていて、こんな行動をおこすのか。人に手酷い傷を負わせるだけでなく、その傷口に塩を塗りたくって、楽しいか。
嗚呼、もしかしたら実際この魔人は楽しんでいるのかもしれない。だって、こいつは魔人だもの。
「あのね、ネウロ。これを人は愛の営みと呼ぶんだよ」
知識マニアのあんたなら知らないはずもないでしょう。弥子はシャツの下に隠れた魔人の手を、シャツごと掴んで云った。
「魔界では、交尾と云うんだが」
「こ……」
絶句する弥子を放って、魔人は今一度行為の続きを再開する。
待て。待て待て待て。
「交尾って云うけど、あんたたちはその交尾とやらを何のためにするのさ」
再び、魔人は手を止めた。弥子の鎖骨にかかる魔人の髪の毛がさらりと揺れた。
おかしいな。今日の魔人は弥子の話をよく聞く。弱者に無理を強いようとしている強者故の、余裕か。或いは、彼自身にも迷いがあるのか。
迷う? ネウロが? 変なの。
弥子は笑った。おかしくて涙が出そうだ。
「何のための行為なの」
涙を堪えて、畳み掛けるように問いかける。
「子どもが欲しいの? 自分の遺伝子を残したい? じゃあ、どうして、相手があたしなの」
愚かで、微かな期待を孕んだ声。この期に及んで諦めがつかない自分を心のうちで嘲笑しつつ、弥子は魔人の頭を引き寄せた。この儚い期待も、魔人の冷たい美貌の前に砕け散ることを知っている。でも、どうせなら、いっそ粉々に砕かれてしまえばいい。どん底に突き落とされてしまえば、あとはもう落ちることもないだろう。そうすれば、これから為される愛のない営みに、絶望することもないだろう。
濁った深緑の双眸の向こうに見えるのは、荒野だけだ。
「ねぇ、あんたはあたしとの子どもが欲しいの?」
魔人がはっと息をつめ、瞠目したのを、弥子は見逃さなかった。
あーあ。弥子は些か落胆したように息を吐き出す。馬鹿と内心で魔人を罵倒し、弥子は唇を噛み締めて、魔人の頭を抱いた。馬鹿。馬鹿。
魔人が鼻で笑ってさえくれたら、弥子の微かな期待は弥子の密やかな希望通り打ち砕かれただろうに。魔人が微かに息なんぞをつめてくれたおかげで、弥子はまた願いを捨てきれなかったではないか。
「……莫迦め」
魔人の冷淡な呟きとともに再開された行為はまるで暴力染みていて。それが弥子を酷く安心させた。
「……莫迦め」
魔人は繰り返した。
何が莫迦なのか。誰が莫迦なのか。
皆莫迦だ。弥子も、ネウロも。皆、皆。そして弥子は魔人が莫迦らしいほど愛しくて堪らないのだ。



世界は廻る 060905