暇を持て余している魔人はとても饒舌で、己が豊富な知識を弥子に披露することもしばしばだった。弥子にとって魔人の話はだいたいにして興味深かった。魔人の知識は幅広い。己が十数年間暮らしてきたこの世界の知識を異世界の住人である魔人から授かっているとき、弥子は皮肉なことだと思わないでもなかったが、事実、魔人の話は面白かった。感情を一切排除した魔人の完全なる第三者視点から見下ろされたこの世界は、弥子が思っていた以上に、モノクロめいていて、しかしときに色鮮やかに輝いていた。
魔人の生まれ故郷の話も大変興味深かった。弥子は魔人に魔界の話をよくせがんだ。謎にしか興味らしい興味を示さない魔人は、己が手で謎を喰い尽くしてしまったという魔界には、とんと興味をなくしていたようだが、気が向くと弥子が好む魔界の話も彼女に云って聞かせた。そしてそんな弥子の反応を、魔人は至極楽しそうに伺うのだ。
「なんかさぁ。一度くらいは魔界を覗いてみたいとは思うのよね」
魔人の話から思い描く世界はとてつもなく奇妙で、弥子の常識からは激しくずれていたけれど、現実の魔界はおそらくは弥子の稚拙な想像力を更に上回って奇怪な世界なのだろうと、弥子は想像に想像を膨らませる。
「行ってみたいなぁ……」
魔人と出会う前の平穏な生活を切望することも少なくないが、一方で魔人の世界にも惹かれているのも事実だ。これは相当、魔人に毒されているかもしれないなぁ、と弥子はまるで他人事のように思った。
「貴様なんぞ魔界に行った日には、瘴気に当てられて、数日ともたないだろうな」
「いや、暮らすわけじゃないからさ。覗くだけ」
「どちらにせよ、脆弱な人間が耐えられるはずがない。生命維持活動こそなんとかなるやもしれんが、まず精神が侵されるだろう」
「ふぅん、残念だねぇ」
「まあ、魔界と一言で云えども、広い。瘴気が他に比べ希薄なところがないわけではない。その手の場所なら、上手く行けば数ヶ月くらいは生き長らえるやもしれぬ」
尤も、数日だろうが、数ヶ月だろうが、人の時を遥かに凌駕する永さを生きる魔人にとってさした違いはないのだが。
「いや、だから暮らすわけじゃないんだってば」
人の話を聞けよ、というツッコミは、そのまま弥子の心に留めておかれたままだ。弥子が滅多なことを云えば、魔人はすぐに自称“アイジョウヒョウゲン”という名の暴力を容赦なく弥子に振りかざすからだ。
「てゆかさ、瘴気はさ、人間にとって毒なわけでしょ?」
何を今更と言わんばかりに魔人は、弥子を見下ろした。
「人間が瘴気に慣れるってことはないわけ? ほら、アレよ。昔の王様とか貴族がさ、小さい頃から毒に身体を慣れさせてたって、アレよ」
「ふむ。実験してみるか、ヤコ」
ネウロの清々しい笑顔の裏に潜む凶悪な顔を敏感に察知して、弥子は脊髄反射の如くさっと逃げ腰になった。この歳で死にたくは、ない。
「魔界見学ツアーを毎日やってやってもよいぞ。うん。貴重なデータがとれそうだ。どうだ、ヤコ」
「つ、謹んでお断りします……」
「ふふ。そう嫌がるな。それにな、それはそもそも今更な話なのだ」
「は?」
「我輩の傍にいるということが、つまりそういうことなのだからな」
目を点にさせる弥子の頤(おとがい)をむんずと引き寄せ、魔人は美しく笑ってみせた。眼前に迫った完璧な美貌に、弥子は頤を掴まれた痛みすら忘れ、息を飲んだ。
「そういうことって?」
「魔人は常に瘴気を発している。無論、我輩もだ。この世界に於いては、抑えてはいるが、それも完璧ではない」
完璧な美貌が、完璧な美声を装って、弥子に残酷な現実をつき付けた。
「えっと……つまり、あたしは常に瘴気に曝されてる……と??」
常に毒に曝されてると?
「そういうことだ」
掴んだ頤を離さず、魔人は冷ややかに言い放つ。
(ああ、そういえば、あかねちゃんは魔人の瘴気が原因で蘇ったんだっけ?)
髪の毛の化け物である愛らしい友人を思い出す。
(うーん……言われてみれば、確かに今更な話だよなぁ。うん、そうか。そうなんだぁ……)
弥子は些か判然としない瞳で、魔人を見やった。
「恐ろしいか?」
くつくつと喉の奥を鳴らして、魔人は笑う。愚かな人の子は恐怖のあまりもはや声も出させないか?
「逃げたいか?」
魔人の吐息が、弥子の鼻にかかる。ぴくりと震えた弥子の睫毛を魔人の優れた視力は見逃さなかった。それを魔人の問いかけに対する答えだととった魔人は、細心の注意を払いながら弥子の頤に添えた手にほんの少しの力を加えた。
「いくら貴様が逃げたいと思っても、決して逃がさんぞ―――」
弥子は瞠目し、濃い緑の双眸を見つめる。
それは何て甘い響きを孕んだ声。愛だとか情だとか、そういった類の感情を一切持たぬという魔人に、弥子は都合のよいように勘違いをしてしまいそうになる。
弥子は無意識に力んでいた身体から、すぅと息を吐き出して、苦笑した。馬鹿な弥子。こんな化け物にいったい何を求めるというのか。
「……今更、逃げ出そうとも思ってもいないけどさ」
言葉が出なかったのは、ただ魔人の云う事実に実感を持てなかったからだ。弥子にとっては、目に見えぬ瘴気に己の身体が日々蝕まれているなどという事実よりも、今この瞬間にも己の頤を掴んで放さない魔人の手によって頭を木っ端微塵に砕かれるかもしれないという話のほうが、よっぽど現実味を帯びているのだ。
今更、新たな恐怖など抱かない。
逃げたいとも思わない。
弥子は魔人に求めない。魔人に何かを求めるなど詮無いことだと弥子は知っている。だからせめて逃げない。どういう形であれ魔人が弥子に執着してくれるというのなら、それを受け入れ、せめて魔人が弥子から興味を逸らさないよう、愚かな人間の浅知恵を絞って抗うより他ない。
弥子は、魔人の傍にいたい。それ以外は、求めない。
「でも、そうか。ちょっとは耐性できてるのかな」
自然、口元を綻ばせつつ、弥子はまるで独り言のように呟いた。
いつか、魔人の生まれ育った世界を垣間見ることが出来るだろうか。そのまま、そこで息絶えるというのも悪くないかもしれない。少しでも多くの魔界の光景を、網膜に焼き付けて。
「或いは、貴様の子どもなら、貴様よりは瘴気に耐性がつくやもしれぬ。その子どもの子どもなら、尚のこと」
弱く儚き人間の数少ない美徳は、その進化の早さにあるのだ、と魔人は些か恍惚とした表情を形作って言った。太古より受け継がれてきた記憶を有する遺伝子に、また新たな記憶を書き加えて、確実に次世代へ、次世代へと繋いでゆく。魔人が生まれ消滅するまでの間に、人間は進化の階段を何十段と上るのだ。
「……あたしの子どもねぇ」
種は誰になるんだろうか、と弥子は当所ない未来を想像しようとして、やめた。弥子は魔人に求めない。ただ、魔人が暇を持て余さないよう、次の話題を促すのみだ。
魔王の血脈 060905