あまっからくて愛しいやつ



 和風な造りの飲み屋は、幼馴染の女の子が行きつけの店だった。
 その店の一番奥まった個室で、不破松太郎は彼女がお気に入りだった日本酒を手酌でちょびちょびと飲みながら、アルコールのせいで緩む涙腺を必死に引き締めた。泣くものかと閉じた瞼の裏に思い描くのは、口角をにっと吊り上げて笑う彼女の顔だった。韓流ドラマも真っ青な劇的な大恋愛の末に、一般人のもとに嫁いだ彼女は、女優の仕事をのんびりとマイペースに、しかしえらく真剣に続けつつ、献身的に旦那に尽くしているらしい。
 彼女が作るあの美味しい卵焼きを箸で突く男が、自分以外にいるだなんて。想像しただけで、すごく腹立たしかった。
 結局、自分は彼女の王子様の座には返り咲けなかった。その現実がこんなにも胸を痛めつける。酒でも飲んでなきゃやってられなかった。
「……で、なんで、野郎とふたりで自棄酒よ」
 向かい側で淡々と酒を消費してゆく敦賀蓮に、松太郎は明日世界が滅んじまうんじゃないかというくらいの絶望的な顔をみせた。
「その台詞、もう十回目だよ、不破くん」
 酔ってるね、君、と苦笑する蓮は自分の徳利にまた酒を注いだ。
「お互い友人が少ない人間はこういうとき辛いね」
「俺とあんたは友だちじゃねえぞ。断じて違う。断固拒否だ」
「そういえば最上さん抜きでふたりで飲んだのってはじめてだねえ」
「俺はあんたとキョーコと三人で飲むたびに、あんたなんかこの世から消えてくれればいいと思ってた」
「奇遇だね、俺もだよ。死んでしまえと思ってたんだけど、なかなか君死んでくれないんだもの」
「あんたこそ死ねよ。今からでもあんたが死ねばキョーコもちょっとは悲しむだろうから、俺はそこにつけ込む。旦那の代わりに俺があいつにやさしくしてやって、略奪愛だ!」
 松太郎は言ってて、悲しくなった。とんだ妄想をしている。しかも真剣に。
 とうとう堪えきれなくなって目尻から涙が一粒零れ落ちて、しまったと思ったときには、蓮がハトが豆鉄砲でもくらったかのような顔をしていた。
 見られた。泣いているところを見られた。
 松太郎はお品書きの横に置いてあった店のロゴの印刷された紙ナプキンを掴んで、蓮に投げつけた。
「なんで、あんた、ここにいんの。俺が先に飲んでたのによ」
「いや、俺も君がここにいるとは思わなくって。いや、うん、あのね、泣かないで。気持ちはわかるけど泣かないでよ」
 蓮は松太郎が投げた紙ナプキンを拾っては、松太郎の涙を拭い、捨て、また拾っては涙を拭い、捨てた。
 積みあがってゆく涙と鼻水のついた紙ナプキンを眺めながら、松太郎はもうどうしたらいいかわかんなくなっていた。すごく恰好悪いところを見られている。
(もう俺は芸能界では生きていけん……)
 同じ業界の天敵の前でこんな醜態を晒したとなりゃ、この先どうやってこの世界で生きてゆけというのか。
「もう引退だ」
「ええ?」
 蓮の慌てた声に、心の片隅がすっとするのを感じながら、松太郎はやけっぱち気味に引退だ引退だと繰りかえした。
「君、かわいいなあ」
 引退だを20回くらい繰りかえした頃に、蓮がぽつりと言った。
「は?」
「かわいい。最上さんが昔よく君は憎らしいくらいにカワイイヤツだって言ってたけど、なんか納得したよ」
 松太郎が思わず顔を上げると、テーブルに頬杖をついて笑う蓮と目があった。
「はあ?」
 紙ナプキンとは違う感触が頬を滑っていく。それが蓮の指先だと認識する前に、目の前に蓮の顔が迫ってきて、あれ、と松太郎は瞬いた。
 個室に軽い音が響いた。箸が転がって、テーブルから落ちたらしい。
 日本酒の甘ったるい薫りが鼻についた。ついでに自分のものとは違う男物のコロンの薫り。
「なにした……」
 唇を手で押さえて、全身を戦慄かせる松太郎を、蓮はくくっと咽喉の奥で笑った。その笑いで、松太郎は今しがた唇を夢のように掠めていった感覚が夢ではなかったのだと知った。
 唇を奪われた。あろうことか、野郎に。
 ということで、殴る。ぜってーに殴ってやる。
 松太郎はそう思うが早いか、目の前に散らかっていた酒やらツマミの類やらを腕で乱暴に払いのけ、テーブルの上に乗り出して、むんずと蓮の胸倉を掴みあげた。松太郎は常日頃から一度くらいは蓮のそのお綺麗な顔をぼこぼこにしてやりたいと思っていたので、この際だから日頃の鬱憤を晴らすべくせいぜい気が済むまで殴ってやることにした。今の自分にはその権利があるはずだ。
 涙も鼻水もいつの間にか、止まっていた。
「歯ぁ食いしばれー」
「顔はいけません、顔は。一応商売道具なの」
 蓮は胸倉を掴まれたまま、困ったように眉を寄せて、松太郎を窘めるようなことを言う。困った顔をしたいのは俺のほうだ、と松太郎は思った。
「なんてことをしやがるてめえ」
 歯軋りしててすごめば、
「いやー君がかわいいなあと思って」
 なんてことを蓮はひょうひょうと言った。
「俺は男だ!」
「俺も男だよ」
「だからおかしいっつってんだろ! つか、あんた、キョーコが好きだったんじゃないのかよッ」
「うん。でも君もかわいいなあって」
「あんた、ホモか!」
 途端におぞましいものでも触ってしまったとばかりに、松太郎が蓮の襟元から手を離すと、蓮は苦笑した。その苦笑すら、今の松太郎には背筋をざわつかせるものだった。
 出来ることならこの空間から一目散に逃げ出したいけれど、出口に走るためには、まず蓮の横を通らなきゃならない。どうして奥の席に座っちまったのか、と松太郎は数時間前の自分を心のうちで力いっぱい罵倒した。とりあえずテーブルから降りて、出来得る限り個室の隅っこまで下がる。とはいえ狭い個室だ。蓮が長い腕を伸ばせば、簡単に捕まえられてしまう。冷汗が止まらなかった。動悸も激しい。飲みすぎたな、と今更ながらそんなことを思った。
「……誤解のないよに言っておくけど」
 男に言い寄られることはしょっちゅうだけど、まだ男と寝たことはない、と蓮は言った。
「だって面倒くさそうだし。事前処理とか事後処理とか」
 基準はそこかい! と松太郎は全力で突っ込んだ。
「面倒とかそういうんじゃなくて、普通は気持ち悪いとかそういう感情が先にたつだろう!」
「いや、別に」
「フレックス過ぎるんだよ、てめえ! そんでもってなにその立ち直りの早さ。ずっと好きだった女に振られて舌の根もかわかんうちに、なんで野郎を口説いてんの! 軽い軽すぎるんですけどありえないんですけど。なんかもう全体的にありえねえ!」
 一気に捲くし立てて、松太郎は肩をいきり立たせた。
 そんな松太郎をじっと見つめていた蓮は、ややあって松太郎が今まで見たこともないような情けない顔をした。眉が八の字に下がって、唇も変な形で歪んでいた。美男子が台無しだった。
「ああ……きっと、寂しいのかな」
 慰めて欲しいんだよ、俺も。そう言って、蓮はくてりとテーブルに突っ伏した。
 その旋毛をぼんやりと眺め、眺め、眺め、松太郎はやがておそるおそると言った風に口を開いた。
「……もしかしなくとも、あんた、酔ってる?」
「酔わないでいられますか」
 はあと息をつく蓮の目元は赤かった。松太郎は息を落ち着けて、すとんと座布団に座りなおした。そしてまた徳利に口をつける。動悸も少し落ち着いてきた気がした。飲み干した徳利をとん、とテーブルに置く。
「そうだよ。酔わないでやってらんねえよ。誰かに身も心も慰めて欲しいよそれが人間ってもんよ。でも同じ女にふられた男がふたりで、お互いの傷を舐めあったって仕方ねぇ。建設的じゃねえもん」
「いいじゃない、建設的でなくたって。刹那的だって。一時の快楽だって少しは人を救ってくれるよ」
「快楽って……」
「セックス」
「だから誰と誰がすんだよ」
「俺と君」
「だからしねえよ、俺は男となんて。子孫を残せもしない不毛な性行為なんて俺はしない」
「男と女だって避妊しながらセックスするじゃない。同じだよ」
 テーブルに顎をつけたまま、蓮が松太郎の顔を仰ぎ見た。松太郎はぎゅっと唇を噛み締めて、俯いた。
「……俺はぜってーに嫌だ。だってきっと後悔する」
「男と寝ることを?」
「俺はまだキョーコのことが好きなんだ」
 ほろりとまた涙があふれてきた。
 気持ちよくたって、精を吐き出したって、たった一回だって、たった一時間だって、今の状態で誰かと寝てしまったら結局後悔する。相手が男とか、女とか、そういう話じゃない。
「最上キョーコが好きなんだよ」
 蓮は松太郎のぱたぱたと落ちる涙を、今度は眺めるばかりで、拭ってはくれなかった。
 代わりに蓮は息を深く吐いて、のろのろとテーブルから身体を起こして、無言で酒を飲みはじめた。松太郎はすんと鼻を鳴らして、涙を乱暴に自分で拭った。そして、蓮と同じようにとりあえずアルコールを咽喉に流し込んだ。
「……まずいなあ」
 蓮がひとりごちた。
「まずいなら飲むな」
 いや、そうじゃなくて、とぶつくさ言いながら蓮は顔を掌で覆う。
「まずいよ。俺、君のこと好きになったかも」
 掌の内側から聞こえるくぐもった声に、松太郎は眉をひそめた。
「かもってなんだ、かもって」
「訂正する。俺は君のことが好きです。すごく本気」
「尚悪いわ。どんだけ切り替えが早いんだ、あんた。軽すぎる」
「キスしていい?」
 顔を隠していた掌を下ろした蓮がずいと身体を乗り出してきたものだから、松太郎はいい加減にイラっときた。
「人の話聞いてます?」
「やさしくするから」
「あのな……」
「キス以上のこと、しないから」
 ね? とやさしげに目を細める蓮に、嗚呼この顔にいったい何人の女が落とされてきたのかな、と松太郎は思った。キョーコは結局落ちなかったけど。
 とくりと胸が鳴った。えらく小さい音だったけれど、鳴っちまったもんは鳴っちまった。野郎相手に。
(……まったく、俺がどきどきしてどうするよ)
 やっぱりさっき顔を殴っておけばよかったと後悔した。痣やたんこぶでぼこぼこの顔に迫られたって、きっとどきどきなんてせずにすんだ。
「好きだよ、松太郎くん」
「どさくさまぎれに人を名前で呼んでんじゃねえ」
「好きだよ」
 まったくもって懲りない蓮に、松太郎は呆れたといった風に肩を落とした。途端にきらりと期待に光った蓮の瞳に向かって、くっと口の端をあげて笑ってみせる。
「だったらせいぜい涙を拭ってくれな。俺はもうちょっとどん底気分で泣きたいからよ」
 ええと不満げな蓮なんぞ無視だ。
「キスは?」
「俺が泣き終わったら、くれてやってもいい」
 ただし一回だけだぞ、と付け加えて。
 蓮は了解したと肯いて、紙ナプキンの用意をした。……無粋なヤツだ。なるほど、キョーコがこいつに落ちなかった理由もわかる。顔はいいけど、どうしようもないほど無粋な男だった、敦賀蓮という男は。
「俺を落としたいなら、指で拭え。指で」
「鼻水も?」
「性別の垣根を越えちまうような男が、鼻水ごときで何を言う」
 納得したように笑った蓮に、松太郎もくしゃくしゃと顔を歪ませて笑った。
 涙はすぐにあふれてきた。ぼろぼろとぼろぼろと。
 そして松太郎は無駄に蓮を挑発してしまったことをすぐに悔やんだ。
 指どころか、蓮は舌で松太郎の涙を拭ってくれた。敦賀蓮は想像の斜めを上を行く、とんでもない男だった。とんでもない男に好かれたもんだと今更のように知る。それでも不思議と悪い気持ちはしなかった。
 瞼を閉じれば、思い描くのは大好きな幼馴染の女の子ではなく、慈しむように松太郎の涙を口に含む男のことばかりだ。

スキップ・ビート!|title by ダボスへ|081206