崖っぷち☆ミッドナイトストーリー



「ちょっと、待て――!!」
 腕のなかで必死にもがく女の顔は苦悶に歪んでいて、色気も何もあったものではない。もがき方ひとつにしてもそうだ。ひっくり返った昆虫のごとく、手足をばたばたと動かしているさまは、やはり色気のイの字も見当たらなかった。仮にも本日三十路になった女だろうに。
 そんな彼女の幼すぎる態度に、蓮は思わず溜息をこぼして、額を指先で押さえた。そのすきに蓮の腕のなかから脱出した女は、今度は蓮の向う脛を蹴り上げる。見るも見事な足裁きだった。
「いっ!?」
 声にならない叫び声をあげて、蓮はその場に蹲った。
「な、なにを…」
睨みつけるように女を見やれば、何故か彼女もその場に蹲っていた。
「キョーコちゃん?」
「い、痛ーいー……」
 彼女は自分の足先をさすって、顔を歪めている。
「こんの、敦賀さんの石脚……」
 石脚?
「何それ」
「石頭を捩ってみました」
「あ、そう」
 この期に及んで、そんな冗談を言うだけの余裕が彼女にはあるらしい。キスだけで、あんなに暴れまわっていたくせに、そんな言葉遊びをするだけの余裕はあるわけだ。
「きみはオレを馬鹿にしてるのか」
「いつ、わたしがあなたを馬鹿にしたっていうんですか」
「いま、まさに」
「言いがかりはよしてください」
 と、キョーコはフローリングに座りながら、痛みのひいた足先をぷらぷらさせている。ジーンズをはいているとは言え、男の目の前で股を全開にさせるとはどういうことだ。まったく、この子ときたら……。下品な野郎なら、ここでこう言っていただろう。――犯すぞ、このアマ。
 しかし、まあ。蓮のほうは未だに脛の痛みがおさまらない。よっぽど強く蹴られたらしい、立つことさえままならない。こんな状態、犯すもへったくりもなかった。
「たかがキスで……」
「たかが!?」
 聞き捨てならないとばかりに、キョーコは蓮を睨みつけた。
「愛し合う男女のキスが、たかが!?」
「一応、愛し合ってるっていう自覚はあったわけね」
 と、蓮はほっと息をついてみせた。正直な話、蓮は心底ほっとしていた。今日までの道のりが長かったぶんだけ余計に。しかし、道はまだ長いらしい。
 婚姻届を出して、はい、お幸せにー! なんていうのは、あまかった。ひじょうにあまかった。
 すっかり失念していたが、何せ相手は、このキョーコだ。旧姓最上。本日から苗字が変わろうと、キョーコがキョーコであることには、変わりはないのだ。
 もっと現実を見るべきだった、と蓮は思わず見慣れた天井を仰ぐ。たかが結婚。されど結婚。薄っぺらいたった一枚の紙のうえでの関係とは言え、そんな関係に自分は思っていた以上に浮かれていたらしい。少なくとも、キョーコはキョーコだ、という当たり前の事実を見失う程度には。
「あなたこそ、わたしを馬鹿にしてるんですか。わたしは愛してもいない男なんかと結婚なんてしません」
「奇遇だね、オレもだ。そして、オレの場合は、愛してるからこそキスしようと思っただけだったんだけどね」
「あなたはいきなりすぎるんですよっ」
「どこが?」
「どこがって……!!」
 顔を高揚させながら、キョーコは叫ぶ。
「今のキスのあと、あわよくば、とか思ってたでしょう?」
「あわよくば?」
「背中の撫で方が、すっごく嫌らしかったもの!!」 さらにキョーコの頬が赤くなる。
 ああ、なるほど、と蓮は頷く。そして、頭が痛くなるような思いにかられた。
「あのね……。あわよくばも何もね。それがふつうでしょう」
「ふ……!?」
 茹蛸のようになったキョーコを眺めながら、もっと、こう、ほんのりと頬を染めて…とか出来ないものか、と思う。男のロマンなんてたいそうなことは言わないけれど、せめて頬の染め方ぐらい三十路の女として研究しておいて欲しい。しかも相手は女優だ。蓮がそれくらい望んだって、罰はあたらないだろう。
「ふつうだよ。夫婦なんだからね」
 まさか、さっき婚姻届を出しにいったことを忘れてないよね? と意地悪く言えば、キョーコは今度は怒りに顔を真っ赤に染め上げて叫んだ。
「馬鹿にしないでください!! 忘れるわけがないでしょー!!」
「だったら」 と、蓮は真顔で言った。 「夫婦らしくしようか」
「ふ、夫婦らしくって……!」
「夫婦らしくは、夫婦らしく。お互い忙しいから新婚旅行は無理だろうけど、ほら、初夜ぐらいは体験できるわけだ」
「しょ……」
「三十路になった女が、いちいちそれくらいで、うろたえないで」
「三十路になって久しい男が、がっつかないでください!」
 もっともだ。三十四歳にもなって、十代の青少年よろしく、女に迫る自分が可笑しくて仕方ない。でも、それくらい、愛してるんだ。愛に歳なんて関係あるものか。
「そりゃあ、もう何年も耐え忍んできましたので。がっつきたくもなるってものでしょう」
 と、腕をキョーコに向かって伸ばす。よし、脚の痛みは完全にひいた。
「知りません……!」
 顔は茹蛸。手足は昆虫。なんて、色気のない。そして、そんな女にしっかり欲情してる自分は、なんだ。
「ま、待ってくださ……」
 細い腕を掴んで、うまい具合に体を押さえ込んで。少女のようにおびえた目をするキョーコを、かわいそうだとも、かわいいとも思う。一方で、もっと意地悪してやろうか、という欲望がむくむくと首をもたげてくるものだから、つくづく男って生き物はしょうもない。
「逃がしませんよ」
 わざと低い声を意識して、耳元で囁く。我ながら、本当に意地の悪い男だ。
「つ、敦賀さん!! いいですか!? 夫婦間にも強姦という犯罪は成り立つわけでして……」
 いよいよ体を硬直させて、完全におびえてしまったキョーコを、蓮は抱きしめた。蓮の胸にすっぽりとおさまっているキョーコには見えないけれど、蓮はいつにないほど切羽詰った顔をしていた。余裕なんてない。余裕なんてこれっぽちもないんだ。
 でも。それでも、流石に、ここまで怯えられるとね。今日はこれくらいで、意地悪はやめておいてあげようか。
「愛してるよ」
 彼女の頬に、自分の頬を押し当てて呟く。今度は、やさしい声で。
 ふっと、体の力を抜いたキョーコが言った。
「わかってるとは思いますけどね、わたしだってねえ、さすがにこどもじゃあないんですよ」
「うん」
「だからねえ、お気遣いは無用なわけです」
「うん、やさしくします」
「いや、だから、やさしくなんぞ……」
「やさしくさせてくださいな、キョーコちゃん」
 今度は額と額をくっつけて。
「どうしよう……」
「ん?」
「わたし、こどもでもないのに、すっごく、どきどきしてるんですけど……」
 果たして、これは計算なのか。それとも天然なのか。蓮は唸る。どきどきさせられたのは、蓮も同じだ。
 とりあえず照れ隠しも兼ねて彼女の鼻先を歯でがぶりと一噛みして、彼女を怒らせてみて。そして、笑いながら、その細い体を横たえた。

スキップ・ビート!|2004初出