崖っぷち☆ラブストーリー



 設定されたタイムリミットは本日夜中の12時ピッタリ。キョーコの誕生日前日の夜は刻一刻と更けてゆく。
「ありえないわ」
 区役所のソファに座りながら、キョーコはボソリと呟いた。
「なにが?」
 隣には彼女の事務所の先輩が、優雅に長い脚を交差させて座っている。この男は本当に何をやっても、ことごとく絵になるから、傍から見る人間はいちいちむかっ腹がたつのだ。人はその感情を嫉妬と呼ぶけれど、キョーコは頑としてそれを認めない。何故に私が敦賀蓮に嫉妬せねばならんのだ、とキョーコは主張してやまない。
「なにがって、この状況ですよ」
「そうかな。俺は結構自然な感じがするけど。なるべくしてなった状況じゃない?」
 心底楽しそうに蓮は笑う。
 珍しいこともあるものだ、とキョーコは半ば感心しながら思った。敦賀蓮という男が、こんなに分かりやすく自分の感情を表に出すのは、本当に珍しいことなのだ。もうかれこれ十年以上、この男と比較的健全な友好関係を築きつつ(ここは重要なポイントだ。彼らの間に男女間特有の甘ったるい、或いは粘ついた関係など今の今まで皆無だったのだから)、今日までずっと付き合ってきたが、キョーコが彼のこんな笑顔を見たことは今まで数えるほどしかなかったような気がする。
 とまぁ天然記念物を見たような感覚に少し浸りかけていたキョーコであったが、はたと正気を取り戻した。
 笑顔がなんだ! 敦賀蓮の笑顔がどうしたというのだ! 今の自分にはそんなことどうでもいい話だ。そう、今、自分が一番どうにかしなくちゃいけないのは、この状況。
「嗚呼、一刻も早くこの場から立ち去りたいものです」
「そう?」
「あなた、この周りの視線が気にならないんですか!?」
 あんまり気にならないねぇ、とどこか他人事のように言う蓮を、キョーコがきっと睨みつけると 蓮はひょい肩を竦めてみせた。
 おぉ、怖い怖い。
 夜の11時を過ぎた区役所には、人なんて全然いないものだ、と思っていたが意外と人の出入りがあることを、今日キョーコははじめて知った。
 こんな時間に、こんな場所で芸能界のトップに君臨する俳優と女優が、そろいもそろっていったい何の用があるというのかと言わんばかりの周りの不躾な視線と、これから自分の身におこるであろう近い未来に耐え切れなくなったように、キョーコは、嗚呼、と悲壮感たっぷりな顔を覆って俯いた。
「往生際が悪いね」
「悪くもなりますよっ。こんな、こんな……こんなことって!!」
「素直でもないよね」
「私はいつでもどこでも素直です」
「どーだか」
 蓮が左腕の腕時計をちらりと見ると、それは11時55分を指している。区役所の夜間受付窓口の上の壁に下がっている時計も、同じく11時55分をしっかりと指している。うん、時計に狂いは無いようだ。
「後5分だね」
「そうですね」
「“最上”さんは、今どんな気分?」
「最悪です」
 なーにが『最上さん』だ。(ここ数年間、ずっと彼はキョーコのことを『キョーコちゃん』と呼び続けているのに)わざとらしい。わざとらしいことこの上ない。
 こたえるまでもなく、気分はまさに最悪だ。最悪の10乗ぐらい最悪の気分だ。あらぬ冤罪をふっかけられた被告人ってきっとこんな気分なんだろう。
「そんなにいやなら逃げればいいのに」
「逃げられるものなら、とっとととんずらさせて頂きたいのですがね、でも逃げるのも癪なんですよ。それにどんなにバカな約束でも約束にはかわりはありませんから」
「君のそういう、無駄に律儀なところ好きだよ」
「それって、褒めてるんですか。貶してるんですか」
「好きなんだから、どちらかというと前者なんじゃないかな」
 ふふ、と蓮は笑う。今日のこの時間の蓮は、実に楽しそうだ。いつになく。
「後……4分32秒だね」
「いちいち数えなくて結構です」
 対してキョーコの頬はさっきから膨れっぱなしだった。
「誰か来るかな」
「誰かって?」
「誰か。この場から、君をかっさらいに来るような、男。まだ4分弱の猶予はあるし」
「残念ながら、まずいないでしょうね。貴方に喧嘩を売ってまで『私を奪ってやろう!』なんていう度胸のある男はまずいないでしょう? 死に逝くようなものだもの」
「……君にとって、俺っていったいどんなイメージなわけ?」
「サタン。大魔王」
 と、キョーコはどきっぱり断言する。
「後3分38秒」
「だからいちいち数えないで下さいってば。そうやって人がいやがることをやるのは止めてください。悪趣味だわ」
「だって俺はサタンらしいから」
 悪趣味なんです。
 呆れて二の句が告げないでいるキョーコを見て、蓮はくすくすと笑い出した。
「さっきから、ほんっとうに楽しそうですね」
「嬉しいんだよ。これで10年越しの片想いが、やっと成就できるってわけだ」
 10年という言葉に、キョーコはぎょっとしたように蓮の顔を凝視した。
 片想い?10年?
「な、なんですって!?それ、初耳ですよ、敦賀さん!」
「うん。初めて言ったもの。後3分12秒」
「さ、最悪……」
「なんで今まで言ってくれなかったのって? 後3分09秒」
「当たり前です。10年なんて、よくもまぁ黙ってこられましたね」
 すごいでしょ、と言いながら蓮はジャケットのポケットから、折りたたまれた白い用紙を取り出した。紙を広げると、一番上に大きく書かれているのは“婚姻届”の文字。その下にはふたりののサイン。神聖な婚姻届のサインだというのに、最上キョーコのサインがなんとも投げやりな字体なのが、おかしかった。
 あと2分49秒後――キョーコが30歳になったその瞬間に、この用紙をすぐそこの夜間受付の窓口に出せば、彼らは晴れて(という表現がこの状況にそぐわないのは明らかだが)“夫婦”になる。
『君が30歳の誕生日までにどうしても結婚相手が見つからなかったら、俺は結婚相手になってあげよう』
蓮がキョーコに(半ば一方的に)そう宣言し、ついでに(半ば強制的に)キョーコにそれを承諾させたのは、もう一年近く前の話だ。
「突き詰めていけばね、俺は君の傍にさえいられれば、それでいいの」
それは、キョーコにとって思いもよらぬ告白だった。
「この10年間、君の一番傍にいる男は自分だってことは火を見るよりも明らかだったでしね。あ、これはメンタルな面での話ね」
「私が貴方以外の男とお付き合いしている間も?」
「うん」
「すごい自信ですね」
「でも、事実でしょう?」
 押し黙ったキョーコに、蓮はやさしく笑いかける。
「君は素直じゃないから、なかなか認めてくれないだろうけどね」
 時計は11時58分を指していた。
「なんで、今まで黙ってたんですか。どうして10年間もっ」
 ずるい。この状況で、今更そんなことをさらりと告白されたって。ずるいじゃないか。ルール違反だ、とキョーコは頭を抱えた。
「たった今説明したじゃない」
「全然説明になってないわ」
 きっと睨みつけてくるキョーコを、横目で見て、蓮はため息混じりに話し始めた。
「付き合っていようが、付き合っていまいが、キスをしようがしまいが、それ以上のことがあろうがなかろうが、ようは気持の問題でしょ?」
「貴方のその理屈だったら、結婚しようがしまいが、ってことになりません? そこまで考えてて、今更、私と結婚しようと思ったわけが知りたいですね。まったく」
「それは、君が一番結婚にこだわってたから」
「……」
「俺は君の傍にさえいられれば、結婚なんてのははっきり言ってどうでもいいんだ。でも、まぁ、君がどうしても30歳前に結婚したそうだったから、それならどうせだし俺が結婚相手になっちゃおうかと思って。それに、もし仮に君が俺以外の誰かと結婚したとして、それでも俺が君の傍にい続けたら、あれでしょ? 俗に言う不倫になっちゃうじゃない。不倫は流石にね、世間的にもあんまりよろしくないじゃない?」
「あんまりどころか、大いにまずいと思いますが。……っていうか、とんでもない理屈だわ。今、貴方がさも当然のようにおっしゃったことは、屁理屈ですよ。屁・理・屈。あぁ、開いた口が塞がらないってこういうときに使うんですよね、きっと」
「うん、屁理屈だよね」
「そうですよ」
「サタンだって恐怖を感じることはあるんだよ、キョーコちゃん」
 はい? とキョーコは目をまんまるくした。蓮の言葉の意図を掴みかねたからだった。
 蓮はにっこりと笑った。そして腕時計の秒針を確かめる。
 後1分20秒。
「さてと、ここは1つ10年分の想いでも伝えておこうかな?」
「……ご自由に」
 キョーコはもうどうとでもなれという気分だった。
「俺は君が好きだよ」
 後1分18秒。
「誰よりも、君を愛してる」
 後1分16秒。
「君がいなきゃ駄目なんだ」
 後1分13秒。
「君しかいらない」
 後1分11秒。
「……それから?」
 少しの沈黙のあと、キョーコはくくっと口元に意地の悪い笑みを浮かべながら、蓮の顔を覗き込んだ。手を握る。その手がほんの少し震えていることをキョーコは見逃さなかった。彼の言う恐怖とは、つまりそういうことらしい。想いを伝えて、ぬるま湯のような関係に亀裂が入ることを彼は怖がっていた。有体に言えば、そういうことだった。
「それからね……うーん」
「ネタ切れですか?」
「結構ネタは仕込んできたつもりだったんだけどなぁ」
 苦笑する蓮に、キョーコはぷっと吹き出した。
「言葉って陳腐ですね」
「俺も自分で言いながらそう思ったよ」
 後1分。
「もうすぐだね」
「そうですね」
 後54秒。
「あれ、だいぶ落ち着いたじゃない。さっきまであんなにぎゃあぎゃあ騒いでたのに」
「まぁ、貴方との結婚も悪くはないかなぁと思いなおしたんです」
 人間って結構現金なものだ。
 それにどうやら、自分はこの男のことが好きだったらしい。――このときようやくキョーコは自覚というものをした。まぁなんというか、キョーコにとってこの男はあまりにも近くにいすぎて、そういう恋愛対象として見ているという意識が働いていなかったようだ。
 だから、今までどんな男とオツキアイをしても、まったく上手くいかなかったのか。なるほど。そういうことか。
「『悪くはない』……ね」 と、蓮は、どこか不服そうに腕を組んでみせる。
「あのさ」
「はい?」
「お願いがあるんだけど」
「はい」
「最上キョーコとして最後に一度は、素直になってみない?」
「それは、私に告白まがいなことをしろということでしょうか?」
「……まがいじゃなくて、告白そのものを是非ともお願いします」
「いちいち言葉にしても、しなくても、ようは気持ちの問題なんじゃないんでしょうか?」
 にっこりとイタズラっこのように笑うキョーコを恨めしそうに蓮は見つめた。
 後23秒。
「君は本当に意地が悪いよね」
「貴方に言われたくありません」
 後19秒。
「それに素直じゃない」
「貴方の屁理屈もどうかと思います。それこそ素直じゃないの最たる例だわ。好きなら好きだって、言ってくれれば私たちはこんな遠回りしなくてもよかったのに。貴方が妙な理屈さえこねてなければね」
「君が30歳ギリギリまで、こんなふうに売れ残らないで済んだはずだって?」
「貴方は一言余計なんです」
 後13秒。
 秒針は確実にタイムリミットに向かって動いている。
 後11秒。
 10。
 9
 8
 7
 6
 5
 4
 3
 2
 1
「大好きですよ。たぶん」
「たぶんって何」
「だからたぶん」
「君は本当に素直じゃない……」

スキップ・ビート!|2004初出