ただ春を待つ



蓮は、事務所の階段の踊り場に座り込む少女の姿を、偶然目に留めた。本当に偶然だった。不思議だと思う。お互い忙しい身であるはずなのに、“偶然”という言葉のもとで、こうも何度も顔を付き合わせることになったのは一回や二回の話ではない。
膝をかかえて、ピカピカに磨かれた床をじっと見つめている少女は、自分を見ている男の存在に全く気付いた様子はなかった。眉根を寄せて、ため息をついて、時折ガシガシと髪の毛を掻き乱して。そんな行動をしばらく繰り返していたその少女は、やがて特大のため息をつき、折りたたんでいた足を、前方に投げ出した。
「あぁーもう、突然何だってあんなこと言うのよー! あの男は!!」
「それって、俺のこと?」
自分の近くに人がいたなどと夢にも思っていなかった少女は、ぎょっとしたように顔をあげ、更に、そこに立っている人間が蓮だと知った瞬間、少女の顔が苦々しいものに変わった。なんで貴方がこんな所にいるんですか、とでも言いたげな少女の顔つき。蓮は彼女の怨めしげな視線を特に気にとめた様子もなくつかつかと階段を昇って、少女の前にしゃがみこんだ。
「こんばんは、キョーコちゃん」 些かわざとらしい笑みをお互いうかべて、蓮は言った。
「こんばんは」 一方のキョーコは無愛想に挨拶を返した。
「休憩中?」
「次の移動時間までちょっと時間があったので」
「こんなところで?」
「ひとりになりたかったもので」
「考え事?」
蓮の問いかけにはこたえず、キョーコはそっぽを向いてしまった。そんなキョーコの態度に、蓮は苦笑いをしながら、自身の手をキョーコの顔にむかってそっと伸ばした。蓮の長くて綺麗な指が、キョーコの目元にそっと触れる。そこにはくすんだ色のクマができていた。
「睡眠はきちんととってるの?」
「……誰かさんが余計なことを言ってくれたおかげで、三日三晩どころか、七日七晩ろくに眠れませんでした」
「それは失礼」
横目でギロリとキョーコが睨んでくるにもかかわらず、何故か蓮は心なしかほっとしたような顔を見せた。
「よかった」
「何がよかったんですか。私はあの日から一週間、頭がこんがらがっちゃって、夜は眠れないは、仕事には集中できないは!」
「それくらい、真剣に考えてくれたってことでしょう? 一週間前の俺の言葉を、君が冗談として受け流してたらどうしようって、ちょっと心配だったんだ」
「冗談で流せるものなら、流したかったですよ。ったく」
あんなに真剣で強い眼差しで、あんなことを言われて、誰があの言葉を冗談で流すことができるというのだろう。
「で? 君が一週間夜も眠らずに考えた結果を、教えて欲しいんだけど?」
目の前にある茶色の瞳は、一週間前のそれと同じくらい真剣だった。いや、あのときより、もっと熱っぽいような気さえする。それは、男が女を見る目だ。
キョーコは思わず俯いてぎゅっと瞼を閉じた。蓮のそんな目は見たくない。見たくなかったのに。
「私は貴方をそういう対象としてみたことがなかったんです」
「知ってる」
キョーコの蓮を見る目は、あくまで後輩が尊敬する先輩を見る目であって、異性を見る目でない。そんなことは、蓮とてよくわかっていたし、だからこそ、一週間前彼女に自分の想いを打ち明けたのだ。今までの関係を打ち砕くために。
「正直言って、敦賀さんにスキだって言われたとき、ショックでした」
ショックで。兎に角ショックで。怒りすら感じた。
「今までの私たちが全部嘘になっちゃったみたいな感じがしたっていうか……」
「っていうか?」
「私の知ってる敦賀さんがいなくなっちゃったというか」
「優しい先輩としての俺?」
「“優しい”かどうかは、かなり微妙な線ですが……てっ、痛! 何するんですかぁ」
「デコピン」
額に走った激痛に顔を歪ませ、目じりに涙をためながらキョーコが面をあげると、そこには鬼のように恐ろしい笑みをうかべた蓮の顔が。「素直じゃない後輩にはこれくらいしないとね」などと、しれっと言い出す芸能界一良い男。キョーコは「そういうところが優しくないと言ってるんですよ」とひとりごち、そこへ再び襲ってきた蓮のデコピンを両手でかろうじて阻止する。
「同じ手は二度もくいませんよ」
蓮は、軽く舌打ちをして、デコピンに失敗した右手を引っ込めようとした。が、それに待ったがかかった。キョーコが蓮の右手を自身の両手で包み込んだのだ。驚きで目を開いた蓮に、キョーコはゆっくりとかみ締めるように言葉を丁寧に紡いでいく。
「私にとって、貴方はいろんな意味で大きな存在なんです」
「………」
「役者としての貴方も、同じ事務所に籍をおく先輩としての貴方も、人間としての貴方も、皆」
「そこに男としての俺はいらない? 邪魔?」
「邪魔っていうか、本当に貴方を男として考えたことがなかったから、吃驚したっていったほうが正しいかも」
吃驚して、うろたえて。うろたえるだけならまだしも、蓮に対して腹をたてるだなんて、筋違いもいいところだった。彼はただ素直に自分のあるがままの気持ちをキョーコに伝えただけ。
「吃驚させちゃって、ごめんね」
キョーコはぶんぶんと頭を振った。むしろ謝らなければならないのは、――キョーコのほうかもしれない。
空いた左手で、蓮はキョーコの頭を撫でてやる。その手つきが、まるでガラス細工を扱うかのように繊細で、キョーコは思わず蓮の右手をぎゅうっと握り締めた。
困る。ほんとうに困ってしまう。何でこの男は、こういう要所要所で優しさを見せるのか。普段は、意地悪で、人をからかって遊ぶのが好きな悪趣味な人間なのに。
「……もう少し、時間をくれませんか?」
ずるいことを言っていると思う。卑怯だとも思う。本当に蓮のことを考えたら、ここで今すぐ答えをだしてやるのが、一番なのかもしれない。だけど、ここで蓮を失うのは嫌だった。かと言って、今すぐ蓮を男として見ることも出来ない。できっこない。
「もう少し………」
「うん。もう少しと言わず、ゆっくりでいいから」
「でも、それじゃ敦賀さんが………」
「俺は大丈夫だから。ね?」
「………ありがとうございます」
蓮は、気にするな、とキョーコを安心させるように微笑む。キョーコが真剣に自分のことを考えてくれているということがわかっただけで、蓮には十分だった。自分でもなんて欲のないやつだとは思うけれど、本当にそれだけで十分。
「ありがとう、敦賀さん」
「いいえ?……ああでも」
「でも?」
「でもやっぱり、早めがいいかも」
そのときの蓮の顔がなんとも情けなく見えて、キョーコは思わずぷっと吹きだした。
嗚呼、この胸の奥。暖かく息づく感情を何と呼ぼう。握った掌の温もりが心地よかった。

スキップ・ビート!|初出2004