『今夜、久しぶりにお酒でも飲みにいきません?』
それが一年前に別れた女から突然かかってきた電話の、第一声たった。
涙がキラリ☆
穏やかな春の日差しとは違う、ちょっときつい初夏のそれが目に染みる。頭も痛い。ぐるんぐるんと頭蓋骨のなかの脳みそが、スプーンでものすごい勢いでかき回されているかのよう。どうしようもない吐き気が腹のそこから襲ってきて、食卓におかれたご飯やらお味噌汁やら出汁巻きたまごやらが、ひどくおぞましいもののように見えた。
食卓に肘をついてげっそりと俯くそんな俺を、最上キョーコはさもおもしろそうに見ていた。
「食べないんですか?」
「食欲がない」
「あら、残念。美味しいのに」
そうだろう。彼女の作った料理が美味しいことなど俺だってよく知っている。俺だからこそ知ってる。何せ俺と彼女は1年ほど前まで、いわゆる“オツキアイ”なるものをしていたのだから。まぁそれは、過去の話なんだけども。
「だいたいなんで君が。俺のマンションに。こんな朝っぱらから、いるんだ。不法侵入で訴えるぞ」
しかもご丁寧に朝ごはんまで作ってくれちゃって。彼女と俺が現在進行形でオツキアイをしているのなら、この状況は自然なものだけれど、俺たちはとうの昔に破局しているんだよ。昔の恋人がさも当然のように朝から部屋にいて、朝ごはんを用意しているというのは、かなりおかしな話じゃないか。
「酷い言われようですねぇ。こっちはベロベロに酔ったあなたを、わざわざ家におくり届けてあげて、しかも一晩中やさしく介抱してあげたというのに」
単語の端々を妙に強調してキョーコちゃんは言う。嗚呼なんて嫌味ったらしい。
何が介抱だ。何が一晩中……。
……。
(……あれ???)
「は?」
何の話? 首をかしげると(首をちょっと動かすだけで気持ち悪い)、彼女は横目でそんな俺を見ながら心底呆れたようにため息をついた。
「やっぱり覚えていないみたいですね。記憶が残らないほど、あなたが酔うなんてねぇ……」 昨日のあなたの酔い方は、かなり酷かったですし――と呟く元・恋人。
「……ひ、酷かったって?」
どんな程度?
背中で冷や汗がどっと流れ落ちる。記憶がないぶんだけ、恐ろしい。いったい昨夜の自分は何をしでかしたのか。
冷や汗だらだらの俺とは対照的に、最上キョーコはマイペースに大根おろしをつけた出汁巻きたまごを頬張っていた。我ながら美味しい出汁巻きを作るわよねぇ、などと自画自賛しながら。
「あの、キョーコちゃん?」
人の話をきいてます?
俺を透明人間か空気のように扱って、彼女はこれまたマイペースに出汁巻きたまごを飲み込んだ。さらに暖かい緑茶まですすった。
ややあって彼女はにっこりといっそ悪魔のようにさえ見える笑みをうかべて言った。
「酒は飲んでも飲まれるな。基本中の基本ですよ」 昨日のことを覚えていないのは、あなた自身の責任です。だから、昨日何があったのか、何をやらかしたのか知りたいのなら、ご自分で自力で思い出してください。
嗚呼、小憎らしい!
苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、俺は昨晩の出来事を思い出すべく、二日酔いで痛む頭を無理やり回転させてみた。こうなったら、何がなんでも思い出してやろうじゃないの。
「昨日は君から突然電話がかかってきて」
「随分と不機嫌な声で電話に出てくれましたよね、敦賀さん」
「ビックリしたんだよ」
一年前に別れたっきり、ろくに会うこともなかったかつての恋人からの突然の電話に驚かない人間がどこにいるというのだ。着信のディスプレイに表示された最上キョーコという文字に、俺がどれだけ驚いて焦ったのか、君にはわからないだろうけど。緊張したまま電話に出たら、自分でも予想外に低くて、ぱっと耳にしただけでは不機嫌としか聞こえないような声になってしまった(あれはワザトじゃない。ワザとじゃないんだからね)。
「それから、君が……」
俺の硬い声とは正反対のあっけらかんとした声で、彼女は言ったんだ。 『今夜、久しぶりにお酒でも飲みにいきません?』
あのときの脱力感といったら、忘れもしない。こっちは年甲斐もなくガチガチに緊張して電話をとったというのに。それなのに、あの緊張感の欠片もないような声色。その上、お酒を飲みにいきませんかだって? 何を考えてるんだ、この女は――と俺が思ったのも無理はない、はずだ。
『随分と唐突だね』
『そうですか?』
『そうです、唐突です』
『まぁ、細かいことはあんまり気にしないで』
気にするだろ、ふつう――と思ったけど、それは心の中に留めておいた。
『で、どうしますか?敦賀さんがいやなら結構ですけど?』
『……いやとは言ってないじゃないか』
俺がそう答えるやいなや、彼女はそれじゃぁとばかりに待ち合わせ場所を指定するだけして、そのまま電話を切ってしまったのだ。
彼女のあまりの素早さに呆然とする俺の耳には、人を小馬鹿にしたような規則的な機械音だけが残る。なんだかなぁ、と携帯電話を片手に見上げた夕焼け空が、妙に感傷的に思えたのを覚えてる。感傷的――横文字で言えば、何だっけ? センチメンタル?
『お花見?』
『私、今年は仕事が忙しくて、桜を見そびれちゃったんですよ。だからお花見』
酒とつまみ入りのスーパーの袋を片手に、最上キョーコはにっこりと笑う。
待ち合わせ場所から歩いて彼女に連れてこられたのは、桜で有名な都内の公園だった。桜の名所とはいっても、もう夏がすぐそこまで来ているこの時期の桜の木は、葉桜ばかりだ。今ざっとみたところで、葉っぱが8、ピンクの花びらが2の割合。というわけで、こんな葉桜をわざわざ見にこようだなんていう奇特な人間は、俺たちぐらいしかいないようで、周りにはひとっこ一人いやしなかった。
『君ももの好きだね』 葉桜を見上げながら、ため息交じりに言った。
『そうですか?私は葉桜好きだけどなぁ』
『俺はこの中途半端な感じが、どうも……』
好きになれない、と言ったら、彼女はむすっとした顔で俺と同じように葉桜を見上げた。
『だったら来なければよかったじゃないですか』
そんな彼女の非難めいた言葉がものすごく腹立たしかった。
『仕方ないじゃないか。俺は君に“酒を飲む”と聞かされてたけど、“葉桜を見る”とは聞かされてなかったんだから』
刺々しい言葉と、大人気ないやり取りに、自分でも呆れてしまう。
苛々する。ものすごく苛々する。何故かはわからないけれど。なんで、こんなに苛々するの。彼女に苛々しているのか、それとも彼女にこんな態度しかとれない自分に苛ついているのか――それすらわからない。
なんで、どうして。
『どうして、突然電話なんてしてきたの』
隣の気配に一瞬、ぴりっとした緊張が走ったのがわかった。
『……だって一人でお花見するのは寂しいじゃないですか』
『相手は俺じゃなくてもよかったんじゃない?』
『……他の人には断られちゃったんです。皆忙しいんだって』
『あ、そ』
相手は俺じゃなくてもよかったんだ、と彼女の言葉は暗にそう俺に訴えてる。彼女の返答に俺は何を期待していたのか。馬鹿みたいだ。本当に馬鹿みたいだ。徐に喉に流し込んだアルコールが、熱かった。
「そこまではきちんと覚えてるんですか?」
「酒がまだ入ってなかったし」
それもそうか、とひとりごちて、彼女はお味噌汁をすすった。
「それからのことは?」
「それからは、酒を……」
あぁそうだ。あのあとも、めちゃくちゃ雰囲気が悪くて。お互い無言で酒を飲んでたんだっけ?
LMEの二大俳優が葉桜の下でベンチに座りながら、無言で酒を飲んでる姿なんて、傍から見たらかなり異様な光景だっただろうなぁ。
無言で葉桜を見ているうちに、うっかり俺は酒を飲みすぎていたらしい。ふと気が付けば、彼女とタクシーに乗って外の景色をぼけっと眺めてた。幸いなことにタクシーの運転手は、俺たちが芸能人だということに気が付いやしなかった。『敦賀蓮』という俳優も『京子』という女優の名前も知らないのかな? たまにいるんだよなぁ、こういう世間の流れに疎い……というか興味のない人間って。これでも一応そこそこに売れている俳優なのになあ。
そんなことを考えつつ、うつらうつらとしていたら、彼女が俺の名前を呼んだ。小さな声だったけれど、空耳ではないはず。それから彼女はもっと小さな声で、ごめんなさい、と言った。
『何が?』
わかってるのに、はぐらかした。あるいはもっと明確な言葉を求めていたのかもしれない。
『色々』
『色々って何?』
『色々』
『答えになってない』
かつての恋人の顔を覗き込めば、彼女の瞳は潤んでいて。これはアルコールのせいなのか、それとも自分のせいなのか、と少し悩む。
『君が謝ることじゃないでしょ』
『……』
『あ、違うか。君“だけ”が謝ることじゃないでしょ……の間違えかなぁ』
せつなげに彼女の瞳がゆれる。
『あのときのことはお互い様でしょ』
一年前の醜い自分たちの姿が目の裏に浮かんだ。
嫌いになって別れたわけじゃない。よくある三流ドラマのように、相手を心底憎んで別れたわけでもない。それまで噛み合っていた歯車がおかしくなった最初のきっかけは、些細なものだったと思う。記憶にさえ残らないような、本当に些細でつまらないものだった。だけどその小さなすれ違いやら、誤解やらがいつの間にか、増えていって。きちんと話しあって、一つ一つ片付けていけばよいものを、俺たちはそれから目を背けたんだ。仕事で時間がないことを理由に、話し合うこともせず、会うこともせず、しまいには電話やメールさえも億劫がって。
どっちから切り出したということもなく、別れた。
疲れたんだ。ただお互い疲れてた。やるべきこともきちんとせずに、勝手に疲れて、別れた。
でも別れた途端に今まで目を背けてきたいろんなものが、見えてきて――次の瞬間には、もう後悔をしてた。どうして、もっとちゃんと彼女のことを考えてあげなかったんだろうとか。どうして、もっとやさしくなれなかったんだろうとか。もっと自分の気持ちを、伝えようと努力すればよかったのに。彼女ともっとしっかり向き合っていたら、こんなことにはならなかったのに、とそんなことばかり考えてた。
そして、あれから一年経った今でも考え続けてる。
ふと、夜空にぼぅっと浮かびあがっていたさっきの葉桜を思い描いた。春にも、夏にもなりきれない中途半端な葉桜。宙ぶらりんで、それはまるで、今の自分のようだ。
『俺ね、葉桜が嫌いなの』
『……私は好きです。ていうか、それさっき聞きました』
酔っ払いが何を言い出すのだって顔してる、元・彼女。
『葉桜って中途半端じゃない?』
『私はそうは思いません』
『でも、俺はそう思うわけ』
葉桜は中途半端で好きじゃない。
『まるで今の俺たちだよね』
そう思わない?って彼女の顔を見ると、泣きそうな目で彼女はこっちを見てた。
『中途半端は嫌なんだ』
それから、なんだ?
俺、何話したっけ?
「それから?」 食べ終わった食器を、手際よく片しながら彼女は先を促した。俺のほうの朝ごはんは未だ手付かず。
「おぼえてない」
ひどく断片的な記憶はあるけど、それを繋げるのは難しそうだ。というか、この二日酔いの頭でこれ以上考え事をしたくないというのが本音なんだけど。
彼女はふーんと冷たい視線を俺におくると、すくっと席を立った。
「あれ?」
「帰ります」
「え? 帰るの?」
食器は洗っといてくださいね、と言い残して彼女は足早に玄関へと行ってしまった。
『ちょ、ちょっと敦賀さ……』
マンションの上まで俺を送り届けてくれて、そのまま帰っていこうとする彼女の腕を掴んでみた。アルコールのせいで力加減ができない俺の指が、彼女の細い腕に食い込んでしまったが、お構いないなしだ。痛いと呻いた彼女の唇を、俺は衝動的に自身のそれで塞いでいた。それから、抵抗する彼女の体を無理やり玄関扉に押さえつけて。
『ふざけんのも大概にしてください』
『ふざけてなんかない』
『酔ってるでしょう?』
『うん』
でも、酔ってるからといって、この行為を酔ってるが故の戯れ、だなんて思われちゃあ困る。
『酔ってるけど、俺は本気』
『馬鹿言わないで』
『馬鹿じゃない』
『じゃあ阿呆だわ』
『阿呆じゃない』
酒の力を借りているとは言え、俺は素直に気持ちを言ってるんだ。ありのままの気持ちを。
『もう一度聞くけど、じゃぁ君はどうして、突然電話なんてしてきたの』
『……一人でお花見するのは寂しいから』 ずいぶんと苦しいいい訳だ。
『嘘だね』
嘘じゃないってすぐに否定しないのが、君の答えだろう?
会いたかったんでしょ?
俺に会いたかったんだよね?
『俺は……君のことが好きだよ』
すっかり冷めてしまった朝ごはんを残して、俺は部屋を飛び出した。急いでエレベーターホールへ行って。ボタンを無意味に連打して。
エレベーターに乗っている間に、自分のあまりの間抜けさを罵るかのように舌打ちをした。急げ。急げ。
そのままマンションから走って外へ出て、彼女の背中を捜す。
「キョーコちゃん!!」
振り向いた彼女の顔は、ぶすっとして目尻一杯に涙を溜めていた。
朝日で照らされた涙がキラキラと光る様子に、ちょっと見とれてた俺の頭を思いっきりはたきながら、彼女は言ったんだ。 「オタンコナス」
葉桜の季節は終わり。暑い暑い都会の夏は、もうすぐ目の前だ。
初出2004