アホウ鳥の恋だ



 本来、病室にあるべき男は、病棟の裏手で芝生をむしっていた。うんこ座りで青々とした芝生をむしる背中は、まるっきり不貞腐れたこどものそれと同じだった。
 また懲りずに些細なことでどこかの誰かさんとぶつかって、言いくるめられでもしたのだろう。
 そのどこかの誰かさんの姿を思い描いて、蓮はふっと口元を緩めた。殊更美人というわけじゃない、でもとても綺麗に笑う女だ。彼女よりも美人な女を蓮は腐るほど知っているけれど、彼女ほど綺麗に笑う女を蓮は知らない。好きなんだなあと自らの気持ちを、胸が痛むほど思い知るのはこういうときだ。そして同時に、そこで不貞腐れている男に対する嫉妬もいっそう強くなる。幼馴染だから――たったそれだけの理由で、彼女から心を砕いてもらえる果報者。その頭をカチ割ってやりたくなるほどに憎たらしい。
 現に今も、蓮はそこで丸くなっている背中を蹴り飛ばしてやりたい衝動を必死に抑えていた。
 何を不貞腐れている。
(あんなに彼女に心配をかけて。心配をしてもらって、)
 それで何の不満があるというのか。
 ふたりの前では、いつだって蓮はアウトサイダーだった。彼女と、そこの男が日常的に繰りかえしていた激しい口喧嘩は、その飛び交う言葉の辛辣さとは裏腹に、仔猫が爪をたててじゃれ合っているようにも見えた。とうに成人した男と女が色気の欠片もなく、互いを罵倒しあっているそんな光景を、蓮はいつも一歩退いたところから見ていた。インサイドに、自分が在ることがない。ふたりの間にはどうしたって入り込めない。
 仲がよいんだか悪いんだか。或いはもうそういう次元にいないのかもしれないとさえ思える彼らは、いつもいっしょにいた。
 それが、今はこうして男がひとり、芝生を弄っている。
 彼女のほうは今頃は屋上のちゃっちいベンチにでも腰掛けて、やっぱりひとりだろう。きっと、泣いている。本当はこのうんこ座りの男が心配で心配でたまらないくせに、意地っ張りな彼女はそれを口にすることができないだろうから。白い洗濯物がたなびく屋上で、たったひとりで、かわいそうに。
 あとでなみだを拭いにいってやらなくちゃ、と蓮はそんなことを考えた。
 好きな女が弱っているところにつけ込むような真似をしている。我ながらずるいとは蓮だって思う。でも、そうよ、おとなってずるい生き物。
(あーあー、開き直っちゃ、俺もおしまいだ)
 物心ついた頃から、自分をきれいな人間だなんて思ったことは、ただの一度もない。かといって、自分の汚さを思い知って、凹まないわけでもない。
 溜め息をひとつ。蓮はよっこらせ、とうんこ座りの男の横に、同じように座った。愛しの彼女のなみだを拭いに今すぐにでも飛んでゆきたいけれど、その前にやるべきことがある。いちいち癪に障るコイツを軽くいびっておかなくちゃ。
 男は隣に座る蓮を睨むように一瞥しただけで、ぷいっと顔を背けてしまった。あまりにも幼いその仕草に、蓮は薄ら寒い気持ちになった。ぞわりぞわりと二の腕を伝う感覚。鳥肌までたっていた。
(……き、気色悪っ……!)
 男の外見はたしかにおとなのそれであるのに、所作のひとつひとつがどうにもこうにもこども染みていて、気色悪い。それもそのはずだ、と蓮とて頭ではわかっているのだが。
 男はここ10年の記憶を失っていた。
 男の名を不破松太郎という。平坦な路ですっ転んだ拍子に後頭部をしたたかに打ち付けるような究極のアホンダラで、さらにその頭強打のせいで、まるっと10年分の記憶を失った不運な25歳の男。彼は今、自分を学ランを現役で纏う15歳の不破松太郎だと主張して止まない。見た目はおとな、頭脳はこども。医者は一過性のものだろうと言うけれど、松太郎の幼馴染であり、時間さえあれば彼に付き添っている最上キョーコ曰く、事故から2週間経っても彼の欠けた記憶は戻る気配すらないという。
 15歳の幼いこころが宿った25歳のおとなのからだは、見るからにアンバランスだった。彼の何気ない所作が、口調が、表情が、すべてのちぐはぐさが周囲の心配を誘った。にもかかわらず、10代の柔軟で奔放な精神は、周囲の心配をよそに、この忌々しき事態に慣れつつあった。松太郎は記憶喪失なんてなんのその、猿のように病院内をうろついている。蓮が見舞いにくれば、たいていは病室はもぬけの殻だった(そして大概、松太郎はキョーコに外でひっ捕まえられて、こっぴどく叱られている)。
 不思議だ。
 こどもという生き物は、こんなにも適応能力に優れているものなのか。そう遠くない未来に30歳になろうかという蓮には、ちっとも理解できない。理解できない自分を自覚して、ああ自分はやっぱりおとなになったんだな、と蓮は苦笑した。
 しかし、うんこ座りっていうのは、腰に負担がかかって仕方ない。
「じじくせー」
 そっぽを向いていたくせに、腰を擦る蓮の手を目敏く見つけた松太郎は、蓮を小馬鹿にしたように言った。
「……」
 年上に敬意を表さない無礼者には制裁を。相手が病人だろうがそんなもの関係ないというのが蓮の自論だった。よって、蓮は躊躇すらせずにその無礼な病人に肘鉄をくれてやった。
 うんこ座りが崩れて、そのまま尻餅をつきかけた松太郎を、蓮はことさら嫌味ったらしく笑う。頬にかっと赤みがさした松太郎はすかさず起き上がろうとしたけれど、しかし蓮は容赦なかった。バランスをとろうと必死なあまりふらふらと足元の覚束ない松太郎にトドメといわんばかりに、額目掛けて、人差し指で軽く一突き。たったそれだけで、松太郎は今度こそ無様にひっくり返った。
 はっはっは。蓮は声に出して笑った。
「なにすんだジジィ!!」
「また頭でも打てば、君の記憶が戻るんじゃないかと思って」
「んなわけあるか! 絶対安静を言い渡されてるんだぞ、俺はっ」
 病室を抜け出している分際でよく言う。
「きゃんきゃん咆えないでくれるか。うるさい」
「てんめ、ジジィ!」
「俺はまだジジィじゃありません」
「30歳なんぞジジィだ!」
「まだ30になってません」
「つか、なんだよ、あんた《紳士》じゃなかったのかよ!」
 おやおや、と蓮は驚いたように眉をひょいと動かしてみせた。
「あんた、敦賀蓮っていうんだってな」
 驚いた。15歳の松太郎は本来、敦賀蓮という俳優のことなど知らないはずだ。なにせ、10年前は蓮はまだテレビに露出していなかったのだから。
(調べたんだな……)
 大方、よく見舞いに来る見知らぬ美男にいらぬ対抗心を燃やして、テレビか雑誌か何かで調べたのだろうとは思う。
「そうだよ。俺、実は超売れっ子なゲーノー人なのよ」
 と、肩をすくめる。
「そういえば、君も、ゲーノー人を目指してるんだもんね。喜びなさい、25歳の君はミュージシャンとしてそこそこに成功しているから。神に感謝すればいいと思う」
 この上なく馬鹿にされている。それを知った松太郎は、目を逆三角形にして怒った。それこそ逆毛をたてた仔猫のように。
 馬鹿だなあ、と蓮は思う。
 こどもがどんなに知恵を巡らせたって、自分より10年分も多くの経験を脳みそに蓄えているおとなに口で敵うわけがない。それでも、彼は懲りずにおとなに食ってかかるのだ。相手がキョーコであれ、蓮であれ。
「最上さんもね、有名な女優さんなんだよ。すごく綺麗だろう?」
 事故後、病院のベッドではじめて目を覚ました松太郎は、心配そうに自分の顔をのぞきこんでいたキョーコをキョーコと思わずにぼけっと見とれていた(そして、すかさず口説きにかかって、キョーコにビンタをくらっていた)。
「……あんなのキョーコじゃない」
「君のいう彼女って、君に従順で素直で、人を疑うことを知らない女の子のこと?」
 意地悪く問えば、松太郎はきゅっと唇を噛み締めて、俯いた。
「知ってる?」
 俯いたまま松太郎はうんともすんとも言わない。それでも構わず蓮は続けた。
「彼女、とても君のことを心配してる。うるわしき《幼馴染愛》だね。ほんと、俺が妬いちゃうくらい」
 心配しているんだよなんてやさしげに言っておきながら、幼馴染というところをしっかり強調するのを忘れない。芝生を掴む松太郎の手の甲に筋が浮き上がるのを、蓮はじっと観察する。
 おそらくは15歳の松太郎自身気づいちゃいない彼の感情を、蓮は知っている。松太郎が隠そうともしないキョーコに対する所有欲や独占欲の塊を、人は恋と呼ぶ。蓮はそれを知っている。知らないのは、松太郎本人だ。なんて滑稽な。
 はてさて、そんな本人すら気づいていない恋心を、25歳のキョーコは知っているのか、知らないのか。最上キョーコの心のうちなんて蓮にはわからない。わからないから、どうしようもなく不安になる。不安要素を徹底的に取り除きたくなる。いたいけなこどもに意地の悪いことを平気で言えてしまう。
「ほんと妬けちゃうねえ」
 笑えるくらい悪役が似合う自分。松太郎の指摘する通り、なにが、《紳士》、だ。病気のこども相手にムキになって、こんなに嫌味ったらしく笑えてしまう自分が、どうして《紳士》だなんて。
「……なあ、あんた、キョーコの何」
 ぎろりと松太郎は蓮を睨みつけ、呻くように言った。
 負けん気の強い目だなあ、と蓮は思った。我侭で、俺様で、自信家で、傲慢で、でも松太郎は人の背筋をぞくりとさせてしまうような、おそろしく魅力的な目をしていた。蓮がどんなに意地の悪いことを言ったって、そうそう簡単にはへこたれない。頭は悪そうだけれど、これは中学時代、さぞモテタことだろうと思う。中学生の最上キョーコの思い人もまた、彼だったという。あーあー、本当に妬けてしまう。
 10代の自分を思い出して、目の前の彼と比べてみる。きっと自分は彼のようなまっすぐな目をしていなかった。もっと卑屈でどうしようもないこどもだった。取り柄と言えば、ミテクレの美しさだけだった。
 いい年して、育ちがどうのこうのなんて、自分のどうしようもなくひん曲がった根性をまわりの環境のせいにしたくはないけれど。それでも、松太郎を取り巻く環境はきっと恵まれたものだったに違いないと思う。厳格で口うるさくもやさしい両親、学び舎をともにする友人たち、そしていつだって隣にある幼馴染の少女。そのどれもが、幼い蓮が持ち得なかったものばかりだった。
「妖精さん」
「はあ?」
「阿呆な君が拭えなかった彼女の涙を拭っていた妖精さん」
 尤もそれはものすごーく昔の話だけどね、と心のなかだけで付け加えた。
 コーンと自分を呼び、懐いてくれていた幼いキョーコとの思い出は、蓮にとって数少ないあたたかいそれだっだ。でも、あたたかいだけだ。思い出はたしかに蓮の心をあたたかくしてくれるけれど、満たしてはくれない。思い出だけを抱いて生きるなんて、蓮には出来ない。だから――振り向いて、どうか俺のほうを見て。それだけを願って彼女の傍にいる。もう何年も。
「アホウ? ヨーセー?」
 どこからツッコミを入れたらよいのかわからず訝しげに眉をひそめるこどもをそのままにして、蓮は徐に立ち上がった。
「おい、どこ行くんだよ」
「最上さんのところ」
「んだと」
「きっと泣いてる」
 かっと顔を赤らめて立ち上がろうとした松太郎の頭を、蓮は上から手で押さえつけた。
「立って、それでどこに行く気?」
「キョーコがっ」
 はんと蓮はせせら笑った。
「おまえにそんな資格はない」
 強く、静かに、しかしよく通る声を出した。松太郎を、君、ではなく、おまえ、と敢えて呼んだ。
 松太郎の顔から色が消えてゆく様を、蓮はじっと眺め続ける。
「記憶が無くなろうが、おまえ自身が何も覚えてなかろうが、おまえが彼女に触れていいものか。おまえは彼女に触れることなんてできない」
 酷いことを言っている。そういう自覚はある。でもね、と思う。今この瞬間の彼が何も知らないからと言って、彼を赦してやろうなんていうやさしい人間に蓮はなれない。たとえ、最上キョーコが彼を赦していたとしても、蓮が赦さない。彼女をこっぴどく裏切っておいて、何が幼馴染、だ。
 手を離しても尚、松太郎は呆然と目を見開いたまま身じろぎひとつしなかった。勝気な目の奥に、不安げな感情が揺らめいていた。
 蓮は唇を噛み締めた。
 蓮とて本当は気づいている。ひとり10年分の記憶を持たないこどもの抱える不安は如何ほどのものか。適応能力の有無以前の問題だ。想像するだけで恐ろしい。それがわからぬほど蓮は馬鹿じゃあない。
 なんてことない風を装って、傍若無人に病院のなかを駆け回るこどもの胸のうちに巣食うどうしようもない不安。鏡を覗き込めば、自分であって自分でないおとなの男が自分を見返す恐怖。自分の知る文化の10年先を行くそれ。10年後を差すカレンダーや時計。まったくの別人のようになってしまった幼馴染。セーラー服をまとう彼女はいない。美しく化粧を施した女がいる。その彼女だけが変わらず自分に心を砕いてくれる。無茶をすれば、叱られる。詰られる。下らない口論をして、でも、それが今の松太郎にとっては、この上ない救いなんだろう。
 蓮は今一度、松太郎の隣にしゃがんだ。
「ねえ、少しは、彼女の気持ちも考えてあげてよ」
「……」
「いくら自分が辛いからって、それで好きな女を泣かせちゃうような男なんて、どんなにミテクレがよくたって、糞だ」
「す、好き?」
 ふっと思わず笑いそうになった。ああ、やっぱりコイツは自分の気持ちに気づいちゃいない。
 そんな蓮の笑みがいっそう松太郎を混乱させた。
「どういう……」
「さぁねえ?」
 困惑しきった松太郎に答えをくれてやることなく、蓮はその場をあとにした。

 見上げた空はからっと晴れていた。青い空には白い洗濯物がよく映える。
 蓮は、屋上の強い風に煽られてばたばたと落ち着きのない洗濯物をぼんやりと眺めた。その合間、ベンチに腰掛けたキョーコの背中が見え隠れする。近くに寄って顔を覗き込めば、思ったとおり、彼女は泣いていた。いっそこの洗濯物をぜんぶひったくって、そして彼女の顔に押し付けてやろうか。そんな乱暴なことを蓮は考えた。
 男たるもの、心を大きく持て! とローリィなんかは口を酸っぱくして言う。でも、無理だ。ぜったいに無理だ。少なくとも自分には無理だ、と蓮は思った。他人のために肩を震わせている女を見ていると、そろそろ泣き止んでくれやしないかなあ、と人でなしのようなことをどうしたって考えてしまう。
 ずずっと盛大に鼻水をすすったキョーコの頬に指を添えた。
「すみません、敦賀さん」
「ううん。泣きたいときにはちゃんと泣いちゃいなさいな」
 思ってもいないことをしゃあしゃあと言う。
 おとなってもんは、これだからいけない。汚れちゃって、いけない。
 
スキップ・ビート!|title by ダボスへ|080823