一時間も経たぬうちに無礼講に成り果てたどんちゃん騒ぎの居酒屋をひとり先に抜け出して、御堂は夜空を仰いだ。冬の夜だというのに、街は明るすぎて、星ひとつ見えやしなかった。腕時計を見やれば、10時にもなってない。なるほど、街が眠るにはまだ早すぎる。
てきとうに別の店に入って飲みなおそうか、それともこのままマンションに帰ってワインでも開けるかと考えあぐねいていると、ふいに携帯電話が鳴った。今日の飲み会の主役からの着信だった。
「もしもし、佐伯くん?」
『もしもーし、御堂さぁーん』
「……」
どこにいるんですかぁ。
舌足らずの甘ったれた口調に、御堂は知らず知らず眉間に皺を寄せる。
行きかう人々がぎょっとするようなおっかない顔で首(こうべ)をめぐらせて――見つけた。つい先ほど御堂がくぐったばかりの暖簾の下で蹲る細身の年若いサラリーマン。携帯電話を耳に当てて、もにょもにょ喋っている。
『御堂さぁーん、どーこですかぁー』
いっそこの寒空の下、放置して帰ってやろうか。御堂は半ば本気でそう思った。
遠く、街の喧騒がする。それが酔いの回った頭には心地よい。
夜の公園にはひとっこひとり見えやしない。佐伯と御堂のふたり以外。
佐伯はベンチに浅く腰掛け、ひんやりとした夜風にあたりながら、目を細めた。
視線の先、さっきから飲み物の自販機と睨めっこしている御堂がいる。水にするか、お茶にするか、悩んでいるらしい。味覚も麻痺した酔っ払いに飲ませるものなんぞテキトウでいいというのに、御堂ときたらこういうところで妙に律儀というか、クソ真面目というか。
(御堂さんらしいなあ……)
御堂は事あるごとに佐伯をお人好しだなんだと散々にこき下ろすけれど、そう言う御堂もなかなかのお人好しだと佐伯は思う。案外、世話好きなのだ。御堂はすぐに佐伯を甘やかす。
「ほどほどという日本語を知っているか、佐伯くん」
飲みすぎだ、と窘める御堂からペットボトルの水を受け取って、佐伯はけたけたと笑った。なんだかむしょうに笑いたい気分だった。眉をひそめる御堂の顔が、わけもなく可笑しかった。
「あは、ほどほどって、あなたには一番似合わない言葉ですね。完璧主義で妥協を許さない、鬼の御堂部長」
「そこのマンホールに埋めてやろうか」
御堂が真顔で言うものだから、佐伯はさすがに笑いを引っ込めた。いかんせん羽目を外しすぎたかもしれない。でもなあ、と思う。でも、ちょっとくらい。偶には、うん、偶には。少しくらい、いいじゃないか。
長いこと、佐伯ひとりの肩に責任が圧し掛かっていた案件にようやく上からのGOサインがもらえたのだ。その案件のために、四方八方駆けずり回った。プレッシャーが大きかった分だけ、それから開放された反動も大きかった。今は気が抜けてしまったかのように、身体に力が入らない。
「皆がおめでとうって言ってくれたんですよ」
佐伯はすんと鼻をすする。
「誉めてくれたんです」
――知ってる、だって、ずっと傍で見ていた。
御堂はその言葉を飲み込んで、佐伯の隣に腰掛けた。空を見上げる。都心の夜空にはせいぜい一等星ぐらいしか見えやしない。
ぐすぐすと鼻をすする音が、我ながら困ってしまうほど愛しい。抱きしめてやりたいなあ、と思う気持ちが半分。――でも、御堂は佐伯に少なからず腹を立てていたので。
「うん、よくやった」
お褒めの言葉を授けるだけに留めておいた。抱きしめてなんかやらない。
「よくやったことは認めるが、まだ終わっちゃいないぞ。これからまた忙しくなる」
「はい」
すんすん、と佐伯が泣く。
泣くものだから、御堂は不承不承と手を握ってやった。ああ、たしかに自分は佐伯に甘いんだなあ、と御堂は思った。
ひと月前のことだ。俺を甘やかさないでくださいよ、と佐伯が御堂に言ってきたのは。
いくら恋人だといっても仕事の面で、佐伯を甘やかしているつもりなんてさらさらなかった御堂だったけれど、当の佐伯はそうは思っていなかったらしい。どちらかというと御堂は誰よりもキツく佐伯に当たっていたはずだ。些細なミスや矛盾を徹底的に指摘したり、厳しい注文をつけたり。ところがどっこい、それが佐伯には“甘やかされている”と思えてならなかったという。
誰よりもキツくあたることは、つまり、誰よりも目をかけてやっていることと同義だった。
佐伯に甘やかしてくれるなと言われたときは、なんだかなあ、と御堂は思ったものだ。佐伯の主張がわからないでもなかったけれど、なんだかひじょうに納得ゆかないものがあった。将来性のある優秀な部下を可愛がるのは、上司として当然のことだと思っていたのだが。だが真っ赤に充血した目で睨みつけられとあっては、さすがに彼の言い分を聞いてあげたほうがいいのかなと、そんな風に思うしかなかったのだ。
少し酔いの醒めた佐伯のマフラーを犬のリードのように引っ張って、御堂は先を歩く。
忠犬さながらに見える佐伯が、その実、それはもう頑固だということをこのひと月の間に御堂は身に染みてわかった。御堂を突っぱね、必要以上の手助けは一切受けないという宣言どおりに御堂に一切縋ることなく、佐伯はすべてを遣り通した。寝食を削って、死に物狂いに仕事に没頭していた佐伯の姿を、すぐ傍で見せ付けられていた御堂は、それはもうヤキモキさせられたものだ。
「佐伯くん、私は君を甘やかしたつもりはなかったよ」
嘆息交じりは御堂は言った。これだけはどうしても言っておきたかった。
「わかってます。俺のみみっちぃプライドが優秀すぎるあなたに反発していただけです」
とん、と足を大きく踏み出して、佐伯が御堂の隣に並ぶ。
掴んでいたマフラーを離し、御堂は佐伯を見やった。隣を行くふわっふわっと頼りない足取り。アルコールを摂取していようがいまいが、佐伯克哉は大概こんな雰囲気だ。やわらかいというには儚すぎる彼の雰囲気にはいつだってハラハラとさせられ通しで、こちらとしちゃ正直、生きた心地がしない。大丈夫か、この男、と思ったことは数知れない。それでも、彼は御堂を心配させる分と同じくらい、いや、それ以上にあっと驚かすことをやってのける。
佐伯克哉という男は出来る男なのだ、本来は。本人がいまいちそれを理解していないだけで。
「君は私を利用してやるんだくらいの気概を見せてもいい。私をフルに使って、それで事が迅速に進んで、150%の成果が出るなら、こんなにいいことはない」
「はい」
「いらぬことを考えすぎなんだよ、君は」
「すみません」
しゅんと項垂れる佐伯を横目に、御堂はざまーみろ、と内心で笑った。
少しは反省してくれればいい。佐伯ときたら、このひと月、散々自分を振り回してくれたのだから。
ひと月、忙しく色んなところを飛び回っていた佐伯はろくろく御堂のマンションにも寄り付かず、それこそ佐伯と御堂のプライベートの時間など皆無に等しかったのだが、そのくせ佐伯は深夜にふらりと寝ている御堂の部屋を訪れては、散々御堂を抱き枕代わりにして、そのまま何事もなかったかのように出勤してまた仕事に打ち込むのである。
御堂が寝苦しさに夜中目を覚まし、熟睡する佐伯に背後からがっちりと抱きこまれていたことなんぞ、数知れず。寝食を削っている佐伯を知らぬ御堂ではなかったので、まさかそのままセックスになだれこむなんて暴挙に出ることもできず、いったいどれだけ悶々とした夜を過ごすはめになったことか。
こいつは天使の面を被った悪魔だ。しかも超級の。御堂はこのひと月で、佐伯という男をそう定義した。とんでもない男を愛しちまったもんだと思う。
「あのね、御堂さん。俺、御堂さんのこと本当に尊敬してるんですよ」
ほかほかとこどものように体温の高い手が御堂の手を取る。毒気のない笑顔でしゃあしゃあと言ってのける佐伯に、御堂はむむっと眉間を寄せた。
そんな御堂を前に、佐伯はその笑みをいっそう深いものにした。どこか含みがあるようなないような。佐伯の笑顔は下手なポーカーフェイスよりもよっぽど裏側の感情を見えなくさせる。何にも考えていないと思えば、こちらがあっと驚くほどの思考を巡らせていて、かと思えば、ほんとうにただぼけっとしているだけのときもある。
今回のこの笑みは、いったいどちらのものか。計算か、天然か。
「あ、御堂さん今やらしいこと考えてました?」
「違ぁう」
佐伯がとんちんかんなことをしてやったりといった風に言うものだから、御堂は彼の鼻先を抓みあげた。
「まったく、君ときたら……」
「御堂さん、今回は俺のこどもっぽい意地に付き合ってくださってありがとう」
「そうだ、感謝しろ。私にひれ伏したまえよ」
「アハ、大好きですよ、御堂さん」
そこで言葉を詰まらせたのがいけなかった。
かっと頬に赤みが差した御堂を、克哉はからかうわけでも、嘲うわけでもなく、ただただ二ヘラと幸せそうに笑っただけだった。それがいけない。それが御堂には腹立たしい。
(この酔っ払いめ!)
ていと佐伯の額を引っぱたく。涙目の佐伯に、もっと泣け、じゃんじゃん泣け、と畳み掛けてやった。
「だいたいなんだ。どうして今日の主役が先に帰ってきてるんだ。君のプロジェクトの激励会だったんだぞ」
「そんなこと言ったって、ねえ、聞いてくださいよ、御堂さん」
曰く、酔っ払った先輩女性社員たちの質問攻めから逃れてきたらしい。
好きな子はいるのか、いないのか。恋人はいるのか、いないのか。どんなのが好みなのか。
――そりゃあ、答え難かろうよ。
御堂が他人事のように合掌して見せると、佐伯はとてもとても不満そうに口を尖らせた。
「それにアレです。やっぱり、こういうおめでたい日は好きな人といっしょにいたいじゃないですか。孝典さんもそう思ってくれるでしょう?」
「ふむ」
秘密や内緒話を共有しあうこどものようにふふうと笑みを交し合って、指と指を絡め、ふたりは家路を急ぐ。
冬の夜風ぐらいでは、この火照った身体はちっとも冷めやしない。
さあ、冷たいシーツにもぐって、じゃれ合って。とけ合って。
トレミー二丁目/080220/鬼畜眼鏡,御堂×佐伯