無題
小倶那が武彦たちとの狩を終えて家に戻ると、そこはもう惨憺たる有様だった。ぷすぷすと物騒な音が聞こえ、焦げ臭さが鼻を刺激し、煙が涙を否応なく誘った。
小倶那はとりあえず家に残してきた遠子がその惨劇のど真ん中で座り込んでいるのを確認すると、ほっと一息ついた。衣の裾が焦げ、ところどころ煤で汚れたりしていたが、遠子はどうやら腰を抜かしているだけのようだ。
物音に気づいたのか、遠子は座り込んだまま戸の横に佇む小倶那のほうにゆるゆると首を向けた。その目は呆けていて、ふだんの遠子の勝気さは今は影を潜めている。よくよく見ると、遠子は衣ばかりでなくその白い顔も煤で汚していた。もし、この場に菅流がいたら、彼女の顔を面と向かって指差して腹が捩れんばかりに笑っていたことだろうと思う。
小倶那に見られることによって、はっと我にかえった遠子は眉を顰めて、小倶那を睨みあげた。遠子が彼女らしい強い眼差しで小倶那を見るものだから、小倶那は思わずそっと口元を緩ませた。呆けている彼女も可愛らしいのだが、小倶那にとってはやはり遠子は勝気な瞳をしているものなのだ。小倶那がそんなことを考えているだなんて露にも思わない遠子は遠子で、突然顔を緩めた小倶那に馬鹿にされたような気がして、ものすごく腹がたっていた。
「なによ」
口を尖らせる遠子のそんな仕草があまりにも可愛らしくて、小倶那は一層口元を緩める。そんな小倶那の様子が癪に障りいよいよ怒りが頂点に達した遠子が怒鳴り散らそうと肺一杯に空気を吸い込んだそのとき、小倶那がひょいと遠子の横に体を屈めて彼女の顔を覗きこんだ。
「怪我はない?」
やさしい瞳に一心に見つめらて、怒るタイミングを逸してしまった遠子は吸い過ぎた空気を吐き出し、二、三深呼吸をすると、大丈夫だと言った。遠子の声は蚊が泣くように小さかった。怒りを過ぎたら、今度は唐突に気恥ずかしさが遠子を支配したのだ。とんでもないところを小倶那に見られてしまった、と情けない自分が恥ずかしくて仕方がない。耳まで赤く染め上げて俯く遠子に向かって、小倶那は目元をやさしくして微笑む。
「遠子が無事でよかった」
心底そう思っているらしい小倶那の声には一点の曇りもない。しかしそれで納得できるような遠子であるはずもなく。
「まったくもってよくないわよ」
見て頂戴、と言わんばかりに遠子は竈を指差した。竈は既に真っ黒焦げで、そこにかけてあったであろう鍋は竈から落ちて、妙な形に変形していた。いったいぜんたいどうしたらこんな風になるのか、と小倶那は尋ねたくもなったが、遠子にしてもそれは同じだった。どうして自分にはこんなにも料理の才がないのだろう。そう、遠子は食事の支度をしていただけだ。その結果がこの有様とは、情けない、と遠子は自分を呪いたくなった。
「お米を炊いていたの」
「うん」
「そうしたらお鍋が突然爆発するのよ」
信じられないでしょう、と遠子はしゅんと項垂れる。
「そういうこともあるさ」
「小倶那にはそんな経験ないくせに」
「うん、ないね」
邪気なくさらりと言い放つ小倶那に、遠子はもはや怒る気にすらなれず、一層肩を落として溜息をこぼした。小倶那の料理の上手さは遠子自身よく知っているのだ。七掬の教えによるものであるらしいが、それにしたってどうだ。これではあんまりではないか。遠子とて料理が上手くなるよう努力は重ねているというのに。努力がここまで報われないだなんてあんまりだ。
狩や畑仕事などに出かける小倶那のために暖かい料理を、と思っているだけなのに。
思わず目尻に溢れてきた涙を、小倶那がすかさず拭い取る。
「これは煙のせいよ」
うん、と小倶那は頷いてみせた。ふだんは気丈に振る舞い、幼い頃から男にだって負けないくらいに気が強かった遠子であるのに、気が沈んでいるときに優しくされるとかえって涙腺が緩むのが遠子という少女の常で、遠子の涙は小倶那が拭えば拭うほど溢れ出てきた。小倶那は涙を拭うついでに彼女の頬や額についた煤も落としてやった。口を真一文字に結んで、それでも溢れ出る涙を止める術を知らない遠子は、せめて目だけはまっすぐに小倶那を見つめていた。
「ごめんなさい、わたしったら本当に情けないわね」
「そんなことないよ」
「どこがよ」
「ぼくが料理できるからいいじゃないか」
「よくありません」
「いいよ」
「よくないわ」
どうして?と小倶那は首をかしげて遠子の顔を覗きこむ。
「だって、甘えてばっかりいられないもの」
「どうしてさ」
「どうしてもこうしても……」
「遠子のどこがぼくに甘えってばっかりなのか知りたいな。それにぼくが遠子に甘えてもらいたいんだ。ねえ、いいしょう?」
またそういうことを言う…。困った人ね、と遠子は鼻から息をもらした。
「ぼくに甘えてよ」
その声があまりにやさしくて、そしてどこか幼いこどもが駄々を捏ねているかのようでもあって。遠子の目尻は自然に下がり、そして、涙は、いつの間にか止まっていた。
白鳥異伝|050612