春。麗らかな春。冬の名残である少し冷たい空気と、穏やかな日の光が、心地よい。――そんな、ある春の日。パンッという小気味好い音が、セントラル指令本部の一室に響いた。
「な、何事だ。エディ」
「仕事場でその呼び方は止めろ、と何度も言った筈だ」
痛タタ、と激痛の走る右頬を抑えつつ、ロイ=マスタング中将は、目の前で仁王立ちしている、彼の優秀な部下にして、最愛の妻を見上げた。
デスクの皮製の椅子に腰掛けながら、頬を押さえて。さらには微妙に潤んでいる旦那のその切れ長の瞳。情けないことこの上ない。中将の地位の輝かしさも、焔の錬金術師という二つ名の威厳も何もあったものではない。
そして、そんな彼を白い目で見つめるエドワード=マスタング(旧姓エルリック)と、2人を遠巻きに固唾を呑みつつ見つめる、中将の部下たち。
ちなみに部下たちは、この上司がピンチに陥っているのにもかかわらず、ロイを助けようなどという気は毛の先っちょほどもないようで。
そんな部下たちに、薄情者どもめぇ、とロイが心の中で罵声をあびせたとか、あびせなかったとか。どちらにせよ、それはロイ本人以外の者たちにはあずかり知れぬ話だ。
「………三日前の夜、あんたはどこの誰といた」
ぎくり、とロイの肩が面白いくらいに揺れる。
「ほっほー。その様子だと、身に覚えがあるようだな?マスタング中将?」
「エ、エディ……」
「その呼び方は止めろ」
「エ、エドワード……、こ、ここは執務室であるからして、そのようなプライベートな話題は慎むべきかと、思われるのだがどうかな?」
「却下」
嗚呼、とロイは声にならない悲鳴を上げた。
一回りも歳の離れた妻の眼光が怖いのも然ることながら、その後ろに控えている、銃に長けた部下の沈黙も恐ろしかった。
「離婚だ」
「は?」
「別れてやるって言ったんだ!!」
「な、何を!!」
――莫迦な、と続けようとして、次の瞬間、今度は左頬に走った激痛。頭蓋骨のなかまで、その衝撃音が響いた気がした。
頬を叩かれた勢いで、椅子から転げ落ち、床にぺしゃりと叩きつけられたロイに、すぐに立ち上がるだけの気力も体力もなく。執務室を出て行こうとする彼女を視界の端に捕らえて、慌てて手を伸ばすものの、その手が彼女に届くはずもなく。「待ちたまえ、エドワード!」という言葉も、結局口から発せられることもなく。
うげ、と蛙が潰されたときのような情けない声をあげつつ、ロイは床に全体重を預けざる終えなかった。
「エディ……誤解だ……」
「ふだんの行いが悪いからですよ」
ぴしゃりと言い放った、ホークアイのその一言に、その他の部下全員が頷いたとか。