イナイイナイ



「あんたのその化けの皮を文字通りひっぺがえしてやりたいね」
 人のお気に入りの喫茶店に押しかけてくるなり、千里万里子は鼻息も荒くそう言った。ついでに店員さんにアイスココアを頼むことも忘れない。誰がそのアイスココア代を支払うのかなあ、といんこは読んでいた新聞を折りたたみながら、ぼんやりと思った。
「……ひっぺがえしたら、きっとおっかないものが出てくるよ。刑事さん、泣いちゃうよ」
「言ってくれるじゃない。あたしがそんな脅し文句に負けるとでも言うの」
 そうだよ全くもってその通りだ、という言葉をすんでのところで飲み込んで、いんこは万里子に気づかれない程度に軽くため息をついた。
 この大泥棒の仮面をひっぺがえしてみたら、きっとあんたはそれはそれは怖がって、しまいにゃ 「不潔!」 だの 「えっち!」 だのと男の性を真っ向から否定してくれるに決まっているんだから。そうに決まっているんだから。――といんこは心のなかで万里子をめいっぱい罵倒するのだけれど、口にはしない。したって仕方ない。どうせ鈍感な万里子にはわかっちゃもらえない、といんこはもう端から諦めていた。
 だんまりしたいんこに俄然勢いづいたらしい万里子は、いんこの心のなかなんぞお構いなしにドンと偉そうに胸をはった。
 いやー相変わらず立派なお胸ですこと、といんこはこっそりと毒づく。ともすればその大きな胸へとうっかり伸びそうになる自身の不埒な指をテーブルの下で叱咤して、そんな情けない自分にいよいよ涙しそうになった。嗚呼、男の性って悲しい。
「いいか、いんこ。たとえば真っ裸で明るいお天道様の下を歩くことよりも、そのド派手なカツラと奇天烈なサングラスを取って素顔を晒す――たったそれだけのこと厭うんだよ、あんたっていう男は」
 万里子にしてはもったいぶった言い回しだった。どこか芝居がかったその調子からすると、大方、予め考えていた台詞なんだろうと思う。おそらくは、いんこを言い負かすための。
 万里子の大きな瞳がじっといんこを見据えている。サングラス越しに彼女を見つめ返しながら、彼女から今の自分はどう見えているのかな、といんこは考えた。あっちへこっちへと逃げてばっかりの煮え切らない情けない男とか、おそらくそんなもんだろうとは思う。情けないのは確かであるのだけれど。
「どうだ、いんこ! 聞いてるのか!」
 テーブルの向かい側から身を乗り出して、他人の心のなかにずかずかと入り込んでこようとするその不躾さ。繊細な男心は平気で無視してくれるくせに、いんこのなかに執拗に立ち入って来ようとするのはいったい何故だろう。同情か、それともただの興味本位か。
(いっそ興味本位とかだったらよかったのになあ……)
 同情でも、興味本位でもない。いんこはそれを知っている。いんこは万里子のように鈍感ではなかったので、万里子の自覚のない気持ちが多少なりともわかってしまうのだ。
(好きなのよね、俺のこと)
 わかってしまうことが、いんこにとって幸せなことなのか、不幸なことなのか。きっと後者だといんこは思う。
 なんといったって、この生殺し状態。好かれているのに、ちっともうれしくないのは、好いているのに、思うままに踏み込めないからだ。いんこが万里に抱く想いと、万里子の抱く好意は似て非なるものだと知っていれば、尚のこと。踏み込めるわけがない。万里子から寄せられる意地っ張りながらもわかりやすすぎる好意――それのなんと幼稚なことか。
 いっそ、幼いそれを純粋だと言って見守ってやれるほどに、出来た人間であったのなら。でも、出来ないものは仕方ない。
「いやー、さすがに俺だって、人前で裸になるのは、」
 嘘だね、と万里子がやたら断定的に言うので、いんこは口をひん曲げてだまりこくった。
「あんたはカツラを取るくらいなら、素っ裸で外を歩くほうを選ぶんだろ」
「いやあ、それは、ない。というか、それ公衆猥褻罪。刑事さん、それ、犯罪です」
「はん。じゃあ、なんだい。あんたは、今ここで、その緑ィカツラとサングラスを取ってくれるって?」
 さらに身を乗り出して、ずいといんこの鼻先に自分の鼻先を寄せてくる万里子の無防備さに、いんこは本格的に苛っときた。もう勘弁して欲しい。いい加減にしてくれよ、と思う。
 いんこは口元を歪めて、やけっぱちに笑った。
「はっはっは、刑事さん、そういうことなら早く言ってよ。でも、そういう破廉恥なことは夜のお楽しみということでー」
「違ぁう! 誰もそういう話はしてないっつーの」
「そういう話なんだよ、刑事さん」
 思いがけず、声がいつもよりだいぶ低くなってしまった。万里子がひゅっと息を呑む。
「俺の化けの皮を剥ぐってことはつまりそういうことなの。大泥棒もけっきょく、男なの。刑事さん、男ってわかる? 不潔でえっちぃ生き物なのよ」
「お、おとこ……」
 目玉を真ん丸くして息をつめている万里子を見たところで、いんこははたと我返った。
(俺ってばなーに熱くなっちゃってんの)
 この鈍感娘相手に。無駄骨に決まっているのに。
「お待たせいたしましたーアイスココアでございまーす」
 嗚呼、なんというタイミングだ。
 緊張感のない店員の声に、いんこの肩からどっと力が抜けた。万里子と言えば、もうアイスココアに飛びついていた。いくらなんだって切り替えが早すぎるんじゃないのかと思う。
 ずるずると行儀悪くストローの音を盛大にたててアイスココアを啜るその姿。幸せそうに頬を高揚させて。可愛すぎるったら、ない。
 硬いソファに背中を預けて、いんこは目を瞑った。息を、吐く。胸が、痛い。イヤになる。苦しいのは、きっと自分だけだ。嗚呼、胸が張り裂けそうだ。
「好きすぎて、胸がどうしようもなく痛くって、死んでしまいそうになる」
「は?」
 万里子がストローから口を離して、いんこを怪訝そうに見つめた。
「そういう感覚、或いは感情を、刑事さんは知っている?」
 鈍感な万里子でもさすがに不穏なものでも感じ取ったのか、彼女はびくりと肩を震わせて、身を引こうとした。そこに手を伸ばす。テーブル越しに、万里子の腕を掴んだ。
(逃げないで)
 指先に想いを込めた。お願いだから、逃げないで――モモ子ちゃん。
「いんこ?」
 そう、俺はいんこ。大泥棒七色いんこさ。そして、キミはモモ子ちゃんじゃなくって、刑事、千里万里子。
 いんこはははっと笑いながら、手を離した。手はじっとりと汗をかいていた。見れば、万里子の腕にいんこの手のあとがくっきりとついていた。よっぽど強く握っていたらしい。
「ごめんよ、刑事さん、俺を怖がらないでやってね」
「こ、怖がってなんかないもの」
「うん、刑事さんは強いものね」
 性懲りもなく手を伸ばして、万里子の指先を握った。万里子はびくびくしてはいたけれど、逃げないでくれた。
 やさしく握れているだろうか。自分は彼女にひどくしてないだろうか。
 本当は、もっと、もっと強く握りたい。
 出来ることなら、身体ごと抱きしめちゃいたい。いっそ抱き潰してしまえたら。そして、それ以上にやさしく愛しめたら。
「なによ、泣いてるの?」
 千里万里子っていう女はふだんはとんでもなく鈍感なくせに、こういうときだけえらく鋭いから困る。サングラスの内側の目尻にうっすらと涙がたまっているのは確かだった。万里子からは見えるはずがないのに。

 
七色いんこ|080906