待ってて わたし きっといくから 未来で待ってて
今日ほど自分という存在を嫌悪した日があったか。
ソフィーは項垂れながら、お湯に浸かっていた。
気落ちしたときはお風呂につかって、心身ともにリラックスするといいんだよ。
そう言っていたのは、風呂好きの恋人、ハウルだ。
嗚呼、彼の名前を思い出したら、また涙が出てきてしまったではないか。
ぼろぼろと後から後から零れ落ちる涙が鬱陶しい。だけど、今の自分にそれを止める術はなく。暖かいお湯に口元まで浸かって、必死に嗚咽をかみ殺そうとするも、我慢すればするほど、力めば力むほどに嗚咽は激しくなっていった。
過去に嫉妬するほど馬鹿なことはないし、感情的になって怒鳴り散らすことほど後で冷静になったときに後悔することもない。
だけど。それでも、嫉妬しないではいられなかった自分がいた。
好きだから。大好きだから。どうしようもなく好きだから。未来で待っていて欲しかった。自分だけを待っていて欲しかった。何も知らないで安穏と生きていた自分を棚上げして、それでもハウルには自分だけを待っていて欲しかった。
なんて自分勝手な言い分だろう。
待ってて わたし きっといくから 未来で待ってて
ふと扉をノックする音が浴室に響き、ソフィーははっとしたようにカーテンの向こう側に神経を尖らせて、そして再び湯船の中に顔の半分を沈めた。
「ソフィー?」
扉の向こうから聞こえたバリトンはハウルのものだった。遠慮がちで、弱々しく、ともすれば簡単に聞き逃してしまいそうなほど小さな声であるのにもかかわらず、それを耳でしっかりと拾ってしまう自分にソフィーは苛立ちさえ覚えてしまう。
待てど暮らせどソフィーからの返事は来ず、先ほどより若干焦りの気持ちが含まれた声で、ハウルは繰り返しソフィーの名前を呼んだ。しかし、ソフィーはそれでも、返事をしなかった。死んでもしてやるものか。ぎゅっと唇を血がにじむほど噛み締めて、また溢れてきた涙を止めようと、ぎゅっと瞼を閉じて。
「ソフィー。入ってもいい?」
嫌。入ってこないでちょうだい。―――ソフィーは心の中で叫んだけれど、結局それは上手く言葉として発せられることはなかった。
そんなソフィーの気持ちを知ってか知らずか、ハウルは構わず扉を開ける。扉を開けた瞬間にむわりと襲ってきた熱気と湯気に一瞬顔をしかめつつも、彼はゆっくりとカーテンのむこうで湯船につかっているであろうソフィーのもとへと近づいていった。
カーテン越しから聞こえるのは恋人の微かな嗚咽だった。ハウルはぐっと拳を握り締めて、怖気づく自分を鼓舞した。臆病を自負する自分には、今、自分のせいで泣いているであろう恋人と顔をあわせる勇気なんてほとんどない。でもここできちんと話さなかったらどうなる? ちゃんと謝らなくちゃ。そして、伝えなければ。自分が、愛しているのは、今も昔も、これからさきも君だけなんだ、と。伝えなければ。
きゅっと唇を引き締めて、ハウルは薄いカーテンに手をかけた。そして躊躇いがちに開けたカーテンの隙間からのぞいたハウルが見たのはは、湯船につかりながら目を真っ赤にさせている恋人の姿だった。
「女の子の入浴中に入ってくるなんてマナー違反よ、ハウル」
「今は非常事態だから」
だって、きみがこんなにも泣いているのに、放ってはおけないだろう?
「ききたくないわ。女ったらしのあなたの言葉なんて」
今まで散々女の尻を追い掛け回していたくせに、とソフィーはハウルを責め立てる。
「ソフィー……」
「出てってよ」
「ソフィー」
「大嫌い」
ハウルがそっと湯船の脇に膝をついてソフィーの顔を覗きこんでみるが、ソフィーはというと意地でもハウルと目を合わせてなるものか、とでも言いたげにぎゅうっと瞼を閉じていた。
「大嫌いよ」 微かに開いた唇から零れたのは、ぞっとするほど冷えた言葉だった。
「……ぼくは、好きだ。ソフィーのこと大好きだよ」
「わたしは大嫌いなの」
徐に濡れるソフィーの頬に掌を伸ばした。抵抗はされなかった。熱気で高揚した頬と、その頬を伝う冷たい涙。涙を拭おうとした指先は、あとからあとから流れてくる涙の流れのまえでは、その役目を果たすことはできなかった。
「嫌いだなんて言わないで」
「……」
「言わないで。悲しくなる」
大好きなきみに嫌われてしまったら、ぼくはどうやって生きたらいい?
一分か。十分か。それともほんの数十秒の間だったのか。ハウルに頬を撫でられながら頑なに目を閉じていたソフィーが、その深みのある茶色の瞳を覗かせた。相変わらず目は真っ赤に充血しており、それを見たハウルは眉根を寄せた。泣かないで、とそっと彼女の頬に口付ける。
彼女は興奮した自分を落ち着けるように数回深呼吸を繰返して、そしてハウルと目を合わせた。相変わらずソフィーのその両の目からは涙が流れ落ちている。このまま泣き続けていたら、全身の水分が塩水と化してなくなってしまうのではなかろうか、とハウルは内心はらはらしながら、ソフィーの額にまた一つ口付けを落とした。
「ごめんね、ソフィー」
ソフィーは緩慢な動きで、首を振った。
「わたしのほうこそごめんなさい」
「どうして?」
「だって……だって……」
待ってて わたし きっといくから 未来で待ってて
ソフィーはため息混じりに言った。
「わたし、嫉妬したの」
「うん」
「あなたの横にいたことのある女の人たちみんなに嫉妬したの」
「うん」
「私はそのころあなたのこと、全然知らなくて」
「うん」
「ハウルは、知っていたのに……。覚えてくれていたのに……」
あの日から。ハウルが星の子と契約をしたあの日から。いったいどれくらいの月日が経ったのか。
気の遠くなるくらいに長い年月を、孤独で闇に包まれた年月を、どうして独りで生きろと、独りで待っていろなどと言えるのか。どうして彼にソフィーの自分勝手な嫉妬を押し付けられるのか。
「嫌いよ……。こんなわたしなんて大嫌い。消えちゃいたい……」
「ソフィー、滅多なことを言うもんじゃないよ」
「わたしなんてこのままどろどろに溶けてなくなっちゃえばいいんだわ……」
涙とお湯に溶けてしまえ。
「そして、きみはまた、ぼくを独りにするっていうのかい?」
はっと、顔をあげたソフィーを、翡翠の双眸が静かに捕らえる。
「嫌だよ……」
ハウルのしなやかな腕が、お湯に濡れるのも構わずにソフィーの肩を抱き寄せた。
待ってて わたし きっといくから 未来で待ってて
「ぼくはもう充分待った……」
だからどこにも行かないで
溶けて消えたりなんかしないで
視界が霞んで見えたのは、湯気のせいだったのか、それとも涙のせいだったのか。
(ハウルの動く城,2004/12/08)(2005/12/31改)