わたしはそういう風に愛している
それは、雪深い奥州の地で、九朗義経を匿う奥州藤原氏とその九朗を討ち取らんとする源氏の荒れ狂う猛者どもの間を奔走して、なんとか停戦の話し合いをつけたところで、さあ源氏を鎌倉に連れて帰りましょうか、という日の前の晩のことだった。
(嗚呼、帰ったらきっと頼朝様にどやされるな)
と鬱々としながら、伽羅御所から源氏の陣まで戻ろうとしていた景時は、その途中で九朗と弁慶にとっ捕まったのだ。
鬼のような形相の九朗と、いつもの柔和な笑顔で佇んでいる弁慶に囲まれて、景時はとほほと肩を落とした。九朗も弁慶もおおいに腹をたてているようだった。こと、弁慶にいたっては笑っているだけに背負っている雰囲気の禍々しさがいつになく際立っているから余計に怖い。
「さて」
九朗は居住まいを正して言った。曰く、望美はどうするのか、と。
「どうするって?」
「わからんとは言わせんぞ」
ぎろりと九朗にすごまれて、景時は忙しなく視線を彷徨わせた。
どうしたものか。
景時は、あーとか、うーんとか、散々呻いた挙句 「望美ちゃんのことは、君たちに頼んだよ」 と苦し紛れの逃げの手を打とうと試みた。もちろん九朗に首を締め上げられたのは言うまでもないけれど。
だって好きな女の子の前では恰好良くありたいじゃないか。手を取り合う未来が訪れることがないとわかっているなら尚のこと。せめて最後くらいは恰好良く別れて、綺麗に締めくくりたいと思ってしまう。――冗談っぽくそう告白したら、実直な九朗は腹をたてていよいよ本気で殴りかかってきた。血管が浮き出るほどきつく握られた九朗の拳を、景時は避けるわけでもなく、ただぼんやりとどこか他人事のように眺めていた。抵抗なんぞする気もおきなかった。むしろ殴られたほうが気が楽だとさえ思っていた。
武芸に秀でた男の拳を覚悟してぎゅっと目を閉じる。瞼の裏側に、身体ごと吹っ飛ぶ自分を思い描いた。
だというのに、一向に痛みは振ってこなかった。代わりに聞こえてきた、ぐえ、と蛙が潰れたような声に目を開けたら、縁側の下で九朗が雪まみれになって呻いていた。どうやら九朗のうしろに控えていた弁慶が、ぶち切れた九朗を縁側の外に放り投げたらしい。
「弁慶!」
「九朗はそこで頭を冷やしてなさい。だいたい殴って欲しいと甘ったれている男を親切に殴ってやる愚か者がどこにいますか」
きゃんきゃん犬のように咆える九朗に冷たい視線だけくれてやって、弁慶はすぐに景時に向き直った。
とん、と松葉色の宝珠がふたたび収まった胸の辺りを指先でひとつき。ぎょっとする景時にむかって、弁慶はうっすらと笑って見せた。
女のように甘ったるい容姿ややわらかな物腰とは裏腹に、弁慶という男の情け容赦ない一面を景時はよく知っている。かつては共に戦った仲間だ。軍師としての采配も然ることながら、腕っ節にしたって、体躯に恵まれたはずの景時なんかより、よっぽど弁慶のほうが優れているのだ。今だってあっという間に間合いを詰められ、心臓を押さえられてしまった。どうしたって敵わない。
「どうしてでしょうね、景時」
「弁慶? あのーなんか顔が怖いよぉ?」
「君を見ていると僕はイラっとくることが少なくないのですよ」
「べんけーさーん?」
「実際今も、頭の悪い君をどうこらしめてやろうかと真剣に考えているのですが、」
弁慶はそこでいったん言葉を切った。
景時はへらへらと笑ってなんでもない風を装っていたけれど、弁慶の指先の下、景時の心臓は不自然な速さで脈打っていた。きっと弁慶だってそれに気づいている。その証拠に弁慶は必死に平静を取り繕う景時を小馬鹿にするように酷薄に笑っている。
わずかな沈黙ののち、弁慶は続けた。
「それでも僕は君のその小器用なくせに不器用な性分が嫌いではない」
いいでしょう、と弁慶はひとりで納得したように肯いた。
「彼女を散々泣かせてきた君は男として腐っているとばかり思っていましたが、そうでもなかったようですね。あれだけ彼女の前で醜態をさらしておきながら、この期に及んでまだイイ恰好をしたいという君の浅ましいまでの心意気には感服致しますよ」
感服なんて言っているけれど、ちっとも誉められちゃいない。ひどい言われようだ。でもすべて弁慶の言うとおりなので、景時はぐうの音もでなかった。
今、あの子と顔を突き合わせたら、どうなるかわかったもんじゃない。泣いてしまう。あの子が、じゃない。自分が、だ。
あの子が自分の傍に来たら、情けなくも大口を開けて、あの子の細い腰にしがみついて、わんわんと泣いてしまう。怖かった、寂しかった、辛かった、逃げ出したかった。ずっとずっと君に抱きしめてもらいたかった、と恥も外聞も掻き捨ててこどものように叫んでしまう。そんな自分が容易に想像できた。
だから会いたくない、あの子だけには。
「好きな女性の前で取り繕おうと思うことすらできないほど腐りきってなくってよかったですね」
「……腐ってるよ、もうこれ以上ないってくらい」
乾いた声で自嘲気味に言い、景時は俯いた。
視線の先、力なく降ろされた自分の両の手がある。血の臭いと人の恨み辛みがべったりと染みついた両手は然ることながら、根性のほうもとうに腐りきっている。男として、人として、腐っている。今にも臭ってきそうな腐臭に、自分ですら顔を顰めたくなる。
項垂れる景時に困ったように、弁慶は首を横に振り、縁側の下の九朗は九朗でくっしゃくしゃに顔を歪ませていた。相変わらずの九朗のお人好しぶりに、景時は苦笑した。すこし愚かで、やさしくて、すぐに人に同情してしまう九朗が景時にはいつもうらやましかった。弁慶のこともそうだ。目的のために手段を選ばないきらいはあるけれど、芯の通った弁慶の揺るがなさは風見鶏の景時にはいつもまぶしかった。
「景時、おまえ……」
「腐ってるんだよ」
何か言おうとする九朗を遮るように、景時は言った。
「九朗、わかってるよ。望美ちゃんは俺がなーんにも言わずに鎌倉に戻っていったら泣くだろうってことくらいわかってるよ」
自惚れでも、自意識過剰なわけでもなく、ただ、心根がやさしいあの子は自分なんぞのために涙を流してくれるんだろう、とそう思った。そういう女の子だ。呆れるほどやさしい子だから。
「やさしいから、それだけだと?」
「同情と慕情は別でしょう、弁慶」
「……」
弁慶は、あきれた、と言わんばかりに盛大な嘆息をこぼした。
3人の間に重い沈黙が横たわる。
その沈黙にすっかり景時は油断した。ごく自然ににゅっと伸びてきた弁慶の生白い腕に身体を拘束され、あれ? 妙だな? と思う間もなく、
「殴っちまえ、望美!」
九朗が縁側の下から叫んだときは、景時は受身をとる暇も与えられなかった。
「――へ!?」
柱の影から飛び出してきた影が、景時の身体を蹴り飛ばしたのだ。
「……殴れとはいったが、さすがの俺も蹴ろとはいわなかったぞ」
口元をひくひくとさせている九朗に、望美はしゅんと項垂れたように俯いた。
「勇ましい女性は好きですよう」
なんて嘯く弁慶に、望美はますます居た堪れないといった風に頭を下げる。望美に蹴られて昏倒してしまった景時を膝枕してやりながら。
「それが目を覚ましたら、今度は抱きしめてあげてくださいね。男にはそれが一番効きますから」
景時の髪にそっと指を通して、望美ははにかんだ。
膝の上の重みの愛しさ。腹が立っていないといえばうそになるけれど、景時が目を覚ましたら弁慶のいうとおりまず抱きしめようと望みは思う。
問題はまだまだ山積みだ。少女マンガのようなハッピーエンドにはまだ早い。それでも望美は諦めない。諦めようと思ったこともあるけれど、柱の影で聞いていた景時たちの会話で諦めることをやめた。こうなったらとことん幸せをつきつめてゆこうと心に決めた。
寒さのせいか景時が身じろぎする。ゆっくりと開かれる双眸に望美は笑いかけた。今度こそ景時に逃げられないようにがっちりとその腕を掴んだまま。
遥かなる時空の中で3|title by d|101110