37.8
「君、僕のこと、好きなの?」
たしかにその通りだった。
成歩堂龍一は人が密かにしていたモノを身勝手に暴いて、服を取っ払って、人が苦しんで飲み込んできた言葉を無理やり吐き出せて、――昨夜、ヤツのしたことと言えばそれだけだった。
お天道様が昇って久しい時間だというのに、布団のなかでダンゴムシのように丸くなったまま、御剣は呼吸を震わせていた。
身体が鉛をくくりつけられたかのように重かった。思考が霞み、鋭い痛みが頭部を襲うのは、昨夜、散々泣いて喚いて暴れまわったせいではなく、発熱しているからだ。いや、そもそも昨夜のことがこの発熱の原因なのだ、と御剣は思いなおした。
朝方、マンションを去る成歩堂と入れ違いにやってきた冥は、ダンゴムシと化した大のおとなにいつもの罵詈雑言を投げつけるわけでもなく、鞭を振るうでもなく、ただじっと黙って、彼の呼吸が落ち着くのを待っていた。
とんだ醜態を晒している。情けないやら、恥ずかしいやら。その上、身体中が軋んで痛くてしかたがなかった。
どうして冥を呼び寄せたのだ。御剣はここにいない成歩堂に心のうちで悪態をつく。熱を出して魘されている自分がそんなに心配だったのか。それが彼なりのやさしさだというのなら、とんだ迷惑なやさしさだ。ひとりっきり、そうっとしておいて欲しかった。
もう身も心もずたぼろだ。
いっそ手首を切って死んでやろうか。そう御剣が考えをめぐらしたのを見計らったかのように、それまでうんともすんとも言わなかった冥が口を開いた。
「私があの男を殺してきてあげるわ」
はじめて耳にするような甘やかな声だった。
御剣はのろのろと布団のなかから頭だけを出して、冥を見やった。
目元が腫れあがった御剣の顔に、冥は思い切り顔をしかめてみせた。冥はいつもは鋭い鞭を放つその手を、そっと御剣の頬に滑らせて、殺してあげるわ、と繰りかえした。
「あなたが望むなら。私の大切な“弟”をこんなに酷い目にあわせたんだから」
年上の男を弟呼ばわりする少女のやさしい言葉に、御剣は弱りきった顔で少し笑みを作った。
「殺してやりたい」
「冥」
冥は、八つ裂きの刑に処するべきよ、と吐き捨てるように言った。
「でも、あなたはあの男が死ぬことを望まないんでしょう」
「冥」
「ひどいガラガラ声」
たしかにひどい声だった。
冥は御剣のベッドのわきで膝を抱え、呆れたようなため息をつく。
「最悪な趣味だわ」
「たしかに男同士が睦みあうなんて気色が悪いな」
違う、と冥は言った。
「男同士で性行為をしようが私は、そんな些細なことを気にしない」
「私は大いに気にする」
「だったら、何故、アレを受け入れたの。あんなののどこがいいの」
御剣を弟呼ばわりしたと思ったら、次は成歩堂をアレだのあんなのだのと呼ぶ。御剣ははは、と乾いた、そのくせ今にも涙しそうな声で笑った。
そうだよ、好きなんだよ。私は、アレ、が。あんな男が。
ごめんねごめんね、と繰りかえしながらも、強引に押し入ってくるようなとんでもない男が。
人の気持ちを身勝手に暴いて、そして暴いた気持ちを逆手にとってくるようなズルイな男が。
好きなのだ。
と、御剣はまた布団のなかに潜りこむ。
抵抗しようと思えば可能だった。御剣が本気で拳を振るえば、きっと成歩堂なんぞ相手にならない。それでもこんな結果になった、その理由は。
嗚呼、好きなのだ。好きなのだ。どうしようもなく。
「最悪ね。よりによって成歩堂龍一なんて、つくづく趣味が悪い」
「問題点はそこか」
「そこにつきるわよ」
「つきるかどうかはともかくとして、趣味が悪いというのには異議はない」
「異議がなくて当然よ。あの男、あなたに使わせるタイミングを逸したとかのたまってこの私に座薬を渡していったわよ。どれだけデリカシーのない男なの」
座薬だと!? 御剣はぎょっとした。
「熱が下がらないわね」 そう言って、冥は御剣の前髪を撫ぜあげた。 「使う? この座薬」
「遠慮する」
わかりきっていた答えに、冥はにこりともしなかった。当然よね、とそんな顔をしていた。
当然だ、成歩堂。座薬なんぞ用意していったい誰に、御剣の穴に突っ込ませるつもりだったのか。いや、成歩堂、君が突っ込むつもりだったのか。そうなのか。そうなんだな。ひりひりと未だに痛みを訴える御剣の臀部を痛ましげに、やさしげに撫ぜながら、座薬を押し入れてゆく成歩堂の姿を想像して、御剣はいよいよ本格的に涙しそうになった。
「夕方には戻るって言ってたわ」
「締め出す」
あんなとんでもない男、二度とこの部屋に入れてなるものか。
「どういうわけかこの家の鍵までちゃっかり持っていたわ」
「チェーンをかける」
「そんなものぶった切ってくるでしょうね」
あの男ならやりかねない。やりかねないが、そういう場合は、
「訴えてやる」
言葉にすると同時に、訴えたければご自由に、と笑う成歩堂の姿がありありと脳裏に浮かんだ。
訴えたきゃ訴えればいい。君が僕を訴えたところで、僕が勝つだけだもの。――成歩堂ならそれくらいしゃあしゃあと言ってのけるだろう。
そうだ。ここで訴えて勝ちを得ることが出来るようであれば、そもそも昨夜からしてあのような事態にはなり得なかった。
――君、僕のことが好きなんでしょう。
興奮するでもなく、ただただ淡々とした声で事実を言い当てられたときの、あの緊張感といったらなかった。罪を暴かれた。そう思ってしまった。
法廷ばりの激論を飛ばして、結局負けたのは御剣のほうだった。しまいには違う違うと頭を振るしかなくなった御剣に、君は甘い、と笑い含みに成歩堂は繰りかえしてきた。屈辱にも似た気持ちだった。
――君ってばしっかりしてそうでいて実はとんでもなく詰めが甘いから、こうやって僕なんかに自分の気持ちを易々と看破される。
そう言って、御剣の指を食んで、やっぱり君は甘いなあフフフ、なんて。なんて、破廉恥な。
「……変態め」
「そういうのは本人に言ってあげなさい」
もっともな言葉を残して、冥は夕刻の道を帰っていった。冥が帰宅する頃になっても熱はついぞ下がらなかったけれど、座薬はもちろん使わずじまいだった。
そうして、成歩堂が出戻ってきたのは、夜も更けてからのことだった。
「遅くなってごめんね、御剣」
布団のなかのダンゴムシに申し訳なさそうな声がかかる。曰く、新しい仕事の依頼人との打ち合わせやら現場捜査やらが思ったより手間取っていたらしい。
「熱、下がった? 一応、君の自称“お姉さん”に薬とか渡しておいたんだけど」
「あんな……」
「え」
「あんな座薬なんぞ用意して」
いや、うん、と成歩堂はもごもごと口の中でなにか言い訳染みたことを言っていたけれど、御剣にはよく聞こえなかった。聞き入れるつもりもなかった。
「ねえ、顔、見せてよ、ミツルギ」
「断る」
「痛くしたのは謝る」
「本当にな」
「お詫びに薬を塗ってあげるから」
被った布団の外側から、がさごそとビニール袋を漁る音がする。成歩堂は御剣のマンションに帰ってくるまでの道中で、薬屋でまた新しい薬を買ってきていたらしい。座薬の次はなんだろう。軟膏か。
「お断りだ」
「ミツルギ」
昨夜の強引さとうってかわって、成歩堂のこのしおらしさといったら。彼なりに反省しているのだろうけれど、その態度すら今の御剣には腹立たしいことこの上なかった。そんなに申し訳なさそうな声を今更出すくらいなら、はじめっからあんなことしなければよいのだ。謝って済むなら、この世に警察も、検事も、弁護士だっていらない。
「ミツルギ」
布団のなかで御剣は泣きそうになる。
やめてくれ、と思った。
そんなふうに呼ばれてしまうと、また昨夜のように気が狂いそうになる。泣いて喚いて。自分だけが、おかしくなって。そのくせ君は、ミツルギは甘いだの、君は僕のことが好きなんでしょうだのと、嘯きながらひょうひょうとして。
「ミツルギ、君が、好きなんだよ」
密やかな声は、まるでいけない言葉を聞かされているようだ。
いけないことだと知っていたから、御剣はずっとずっとこの気持ちをひた隠して、自分にすら嘘をついていた。
「気色悪い」
男同士の恋愛なんて気色悪い。
「気色悪くない」
「ありえない」
男同士の恋愛なんてありえない。そう自分に言い聞かせてきたのに。だというのに、成歩堂ときたら。
「ありえなくなんかない」
「ミツルギ」
「黙れ」
「黙らない。ねえ、ミツルギ、男同士でセックスして何が悪いって言うの。ましてや遊びじゃないんだ。本気なんだよ。ねえ、君をがんじがらめにするくだらない常識なんて噛み切ってしまえばいいんだよ。ほんとうの気持ちを覆い隠してしまうような倫理観なんて、丸めてゴミ箱にでも捨ててしまえばいいんだ。学生時代に死ぬ気で学んだ法律だって、好きだっていう自然な気持ちをずっと縛っておけるはずがないさ。そうだろう、御剣怜侍」
一気にまくしたてた成歩堂に、御剣は開いた口が塞がらなかった。
「……とこんな風に言えば、ロマンチストな君は納得してくれるかなって思ったんだけど」
そういうひとことが余計なんだということを成歩堂はちっともわかっていない。わかっていないから阿呆なのだ、この男は。だから御剣はうっかりその長台詞にほだされそうになったなんて言わないでおこうと固く誓った。
「つまり、僕は君が好きだよ」
ほだされるな。そう自分に言い聞かせるのにもかかわらず、のっそりと顔をあげたら、情けない顔をした成歩堂と目があった。ああ、もうだめだ、と思った。負けた。自分の負けだ。ほだされるなよと誓った傍から、もう色んなものが解かされてしまっている。
「それが」 がらがらのミツルギのしゃがれた声に、成歩堂の顔が歪む。そうだよ、こんな声になってしまったのは、君のせいだ。 「昨夜、私はそれが聞きたかったんだ」
頬を遠慮がちに包まれて、それに抵抗しないでいると額を寄せられた。掠めるようなキスもした。
「そういえばちゃんと言ってなかったなあって、今、気がついた。本当にごめんよ、ミツルギ」
まったくだ。
腕を伸ばして、成歩堂の身体を強引にベッドのなかに引き入れる。
びっくり狸みたいな顔をしている成歩堂に構わず、御剣は、破廉恥なことをしたらたたき出すぞ、とだけ言って目を閉じた。今はただ眠い。疲れた。一日、布団にくるまっていたというのに足腰もまだまだ痛い。
「言っておくがな、成歩堂」
目を開けて、睨みつける。
「私は大概執念深いぞ。昨夜のことをしばらく許してやるつもりはない」
成歩堂は申し訳なさそうに苦笑するだけで異議は唱えなかった。それを当然のことと受け止めて、御剣はまた目を閉じる。
背中を撫ぜる手のやさしさに、そうだもっともっとやさしくしろと思う。
やさしくしてくれ。そうじゃなきゃ、また昨夜みたいに泣いて喚いて蹴ってやるから。
だからもっともっとやさしくしてくれ。そして好きだよ、と。
逆転裁判|080721