今日も慶光に「野なかの薔薇」をリクエストした。そして、今日も慶光は最後の一音を弾き間違えて、照れたような困ったような曖昧な笑みをうかべたのだ。
「そういえばな。光也も最後の最後で間違えてたぞ、おじい様よ」
「え」 慶光は、バイオリンの手入れをしていた手を休めて、仁を見やった。 「……本当に?」
「お前のせいだと光也はふくれていたよ」
「あー……それは悪いことをしたなぁ……」
「要練習だな。孫に嘘を教えるような祖父はいかん」
「癖になって、どうにもこうにもなおせないんだって、昔から言ってるじゃないの」
「なおしてやれ」
仁にぴしゃりと言われてしまえば、慶光は頷くしかなかった。苦笑い交じりの頷きではあったけれど。
「光也くんもバイオリンを弾いたんだね」
「ああ」
「仁が光也くんに『野なかの薔薇』をリクエストしたの?」
「そう」
「本当に好きだねぇ」
バイオリンの手入れを再開した慶光の手元を見ながら、仁は口元をうっすらと綻ばせた。
仁は慶光の奏でる「野なかの薔薇」が一等好きだった。光也の奏でる「野なかの薔薇」も大好きだった。バイオリンを弾いている光也を通して、彼のなかに隠れていた慶光の影を見ていたのだと思う。その影が愛しくて愛しくて、恋しくて、たまらず光也に抱きついたこともある。
あの頃は、慶光が兎に角恋しかった。だから光也のなかに慶光を見つけたとき、あんなにも世界が煌いたのだ。でも、今となってはどうしたことだろう。慶光のバイオリンに聴き入る傍ら、彼のなかに今度は光也の影を追っている自分が、確かにいた。
そして気づく。嗚呼自分は光也のことも愛していたのだと。愛しくて愛しくてたまらなかったのだと。
慶光が還ってきたからといって、光也を用済みだと切り捨てられることなど到底不可能だ。切り捨てるには、光也という少年を知りすぎた。慶光と光也の違いを知りすぎた。だからこんなにも寂しい。別れが辛かった。今でも会いたいと、願わずにはいられない。
「光也くんはバイオリンが上手だった?」
「ああ。それに何より、バイオリンを愛してたよ。たぶんお前の影響だろう。……そもそもあいつは爺っ子だったらしいからな」
「そうなんだ」
「みつ。お前、口が緩みっぱなしだぞ」 少しだけ面白くなさそうに仁は言った。
慶光は笑いながら、バイオリンをケースに丁寧に仕舞う。パタンとしっかりとケースを閉じて、それをソファの横に置いた。
「ねぇ仁。いつか光也くんに会いに行こうね」
慶光が真っ直ぐ仁を見据える。仁は思わず言葉に詰まって、慶光の視線を受け止めることしかできなかった。
慶光をじっと見つめる。光也と同じ色の瞳を、見つめる。光也と入れ替わる前の慶光は、こんなに力強い瞳をしていなかったと仁は思う。相変わらず涼しげだけれど、力がある。何かを諦めたような、自分の意思など持たず何でも抵抗なく受け入れてしまうような、仁の胸をきゅうと締め付けるような、そんな瞳をしていた慶光は、今はいない。
慶光が還って来てからひと月あまり。何かが慶光を変えたらしい。
「………同じ顔が二つ揃うのか」
「揃わないよ。光也くんが産まれてるころには、俺たちはしわしわのご老人だもの」
「それもそうだな」
ぷっと仁が吹き出し、慶光もつられたように笑った。
「会ったら、光也くんにはきちんとお礼を言わなきゃいけないね」
「何の」
「仁を助けてくれたこと」
またしても仁は言葉を失う。
慶光はそんな仁に向かって微笑みかけ、言った。 「仁はやさしく笑うようになったと思う。きっと光也くんのおかげなんだろうね」
「………僕は前からやさしい男だったと思うが。特にお前に対しては」
ふふと慶光は笑うに止まって、それには答えなかった。
やれやれ、またしてもはぐらかされてしまった。仁は苦笑いした。
一方、慶光は、仁が随分と穏やかに笑うようになったものだ、とつくづく思っていた。慶光の知る仁は綱渡り的な危うさを常に持っていた少年だったというのに、今の仁からそれを感じることはない。
「ああ、それから。光也くんのために住みよい環境を作っておいてあげなきゃね」
「ずいぶんと甘やかすんだな」
「俺はおじいちゃんだからね」
仁は慶光を捉えていた己の緑の目を眩しそうに細める。慶光を変えた何かを垣間見た気がした。
光也がこの時代においての己の存在意義を考えていたのと同じように、慶光もまた考えたのだろう。己が再びこの時代に戻ってきたわけを。己の存在意義を。
きっと、慶光は見つけたのだ。己がここにいるわけを。
慶光は意思を持って歩き出そうとしてる。否、既に歩き出してる。
「光也くんに一緒に会いにいこうね、仁」
「……おともいたしますよ、ナイト殿」
「ふふ。三人が揃ったら、バイオリンの演奏会でもしようか」
「僕は曲目は最後の最後をとちる『野なかの薔薇』を希望する」
「わかってますよ、キング」
その先にある光を追いかけて 20060108