暗がりのなか、規則正しい寝息を近くで確認して、光也はほっと息をついた。出来ればその顔色も確かめたいところであったけれど、折角寝ている彼を起こしてしまうのは忍びないと、すぐに思い直す。とりあえず、寝息を耳にする限りは仁の容態は悪くはないらしい。これ以上の長居は無用だろう。
「おやすみ」
そっと囁き、そして寝台に背を向けて廊下に出ようとしたときだった。くいと後方から引っ張られるような感覚が、光也を襲ったのだ。
明るいところならまだしも、こんな暗がりでは足元もろくに見えず、なによりも予想だにしなかった方向から力がかかってきたものだから、光也の足はもつれ、そのまま彼の身体は後ろに仰け反った。背後の闇に引き込まれるかのような錯覚に、光也は瞬間的に恐怖を覚え、間抜けな奇声をあげた。
硬直しきった光也の身体を受け止めたのは、ふかふかの寝台だった。倒れたときに痛みこそ感じなかったものの、そのあまりの突然の出来事に、光也は言葉を失い、布団の上に仰向けに倒れこんだまま微動だにできない有様だ。寝間着の下の心臓はばくばくと早鐘を打ち、一向に治まる気配がない。
そんな放心状態の光也に正気を取り戻させたのは、寝ているとばかり思っていた仁の一言だった。
「一度はじめた物事は完遂すべきだ」
ここにきてはじめて、光也は仁が己の寝間着の裾を背後から引っ張ったのだと気づいた。 「てめっ……」
「夜這いしにきたんだろう?」
布団にくるまったまま、仁はにやりと笑う。否、この暗がりのなかでは、相手の顔なんぞほとんど見えたものではなかったのだけれど、少なくとも光也には仁がふてぶてしく笑っているように思えてならなかった。まず仁の声色からして、そんな感じだったからだ。
「違ぇよ!!」
光也は怒鳴って、はたと思い出した。今は屋敷中が静まり返っている時間だ。
 声は潜め、しかし語調は強いままに、光也は布団に包まっている仁に言った。 「つか、お前起きてたのかよ。本当に悪趣味な野朗だな」
「悪趣味とは随分な言い草だが、僕は起きていたわけではないぞ。お前が部屋に入ってきたときにたまたま目が覚めたんだ」
「つまりは起きてたんじゃねぇかっ」 馬鹿野朗と光也は言い捨て、寝台から身体を起こす。
「待て」
「病人は寝てろっ」 手近にあったクッションを仁の顔の横に投げつけて(さすがに病人の顔めがけて投げることは出来なかった)、光也は扉に向かった。 「まったく人が心配して来てみりゃ、妙な悪戯なんか仕掛けてきやがってよ」
「みつ」
「おやすみっ」  扉横の棚の上に置いておいたランプを引っ手繰って、感情任せに勢いよく扉を開ける。
「光也!」
「………馬鹿野朗、こんな時間に怒鳴るなっ」 ここで立ち止まって振り向いてしまう自分はなんて情けないのだろう、と光也は思う。
ランプを掲げて寝台を照らせば、いつもの丸眼鏡を外した仁がにっこりとこちらにむかって微笑んでいた。
「みつ、おやすみの口付けはないのか?」
「……は……」
すっかり固まってしまった光也に、先ほどお前の寝間着を引っ張ったのは“おやすみ”の一言とともに“口付け”がなされなかったからだと、仁はしゃあしゃあと言ってのける。
「お前に風邪をうつしてしまうのは忍びないからな。残念だけれど今夜は頬で我慢するさ」
「いっぺん死んでこい!」
光也が、頬を差し出してくる仁にランプを投げつけずに済んだのは、騒ぎ声を聞きつけた原沢と百合子に寸でのところで取り押さえられたからだった。



20060105