ガシャンという派手な破壊音に続くのは、バラバラと硝子が破片となって砕け散ってゆく音だった。
「阿呆かぁ――!!」
光也は叫ぶやいなや、己の身体に覆いかぶさる仁を力の限り突き飛ばして、割れた窓に駆け寄った。
二階の窓から見下ろした庭に人影がなかったことで、安堵できたのはほんの一瞬のこと。芝生のなかに無造作に突き刺さったハサミを視界にとらえて、光也は己の背中をつっと冷たい汗が流れ落ちてゆくのを感じた。
庭に人がいなくて本当によかった。頭上からハサミが飛んでくる庭なんて、ホラー物だ。しかもそのハサミが頭に刺さった人間がいたら、それこそスプラッター物だ。
「ばかやろうっ」 光也は振り返り、床に尻餅をついている仁に詰め寄る。そして胸倉を掴んで、何考えてんだ、と仁を怒鳴りつけた。 「てめぇな! 人の鋏奪って、しかもそれを外に投げるたぁいったいどういう了見だ!!」
「お前がいけないんだ!!」 光也に負けず、仁も怒鳴る。
「なんだと!!」
「お前が!! お前がっ……!!」 光也の身体の下で、仁が両手で顔を覆う。
「俺が何だ!」
光也は仁の胸倉を掴んだまま、彼を睨み付け、一方仁は己の顔を両手で覆ったまま、声にならぬ声で呻いていた。
「お前が……っ」
「俺が何」
しばしの沈黙。
割れた窓硝子をひんやりとした風が吹き抜けてゆく。
「……仁?」
仁は、震えていた。
わけがわからず戸惑うばかりの光也は、春日の執事である瀬戸が騒ぎを聞きつけて部屋にやってくるまでの間、只々、震える仁を見つめることしかできなかった。



危険だから、と瀬戸に部屋を追い出されて、光也と仁が仕方なく避難してきたのは仁の自室だ。硝子が砕けた光也の部屋は、しばらくはもう使い物にならないだろう。幸い、怪我人はでなかったし、芝生や絨毯に散り散りになった硝子の破片は、今頃瀬戸たちが片付けてくれている。割った硝子は、早いうちに業者を呼んで、直してもらうそうだ。
(ったくよ……)
どっと疲れが圧し掛かってきた身体を、椅子の背もたれに押し付けて、光也は高い天井を仰ぐ。仁は向かいの席で、頭を抱えて俯いていた。
「お前な、鋏を窓に投げつけるなんて馬鹿な真似、二度とすんじゃねぇぞ」
ふだんの調子で仁に話しかけてみれども、椅子に座った仁は、俯き、黙ったままだ。
「聞いてるか?」 やや溜息交じりに、光也は問う。 「仁?」
「……お前が僕を驚かせるのがいけないんだ」 俯いた頭の下から仁のくぐもった声が聞こえた。
馬鹿野郎、と光也は言う。 「驚いたのはこっちだっての。人の部屋に入ってくるなり、『何してるんだ!』とか叫びやがって。しかも思いっきり腕を掴みやがってよー」
あまりに強力な力がかかったのだろう。光也の右腕の手首には、痣がくっきりと残っていた。
「……お前、鋏を首に押し当ててたじゃないか」
「首? ……あのなぁ、髪切ろうとして何が悪い」
「……髪?」 そう言ってやっと顔をあげた仁の顔つきは酷かった。
「そう、髪」 黒い髪を手先でもてあそびながら、光也は言う。 「お前、何かひとりで勘違いしてねぇか」
光也の言う通りだった。あまりの恥ずかしさに、仁は髪の毛を掻き毟り、そして半ば八つ当たりのように光也にむかって悪態をついた。 「……髪を自分で切ろうとなんてするなっ」
「悪ぃか。俺は昔から自分で髪切ってたんだよ」 物心つくまで光也の髪を切ってくれていた母親から逃れるように、いつからか伸ばしだした黒髪。この程度の長さなら、自分でも鏡を見ながら切ることもできるから、と。
「なんだって突然、髪を切ろうなんて……」
「昨日、お前のジぃちゃんが、この屋敷に来ただろ」
「ああ」 そうだったな、と仁は疲れたように頷いた。
「お前がちょっと席を外してるときに色々言われてたんだよ」
「髪のことをか」
「そ。『お前という奴は、相も変らず男児のくせに女のような髪をしおって』なぁんて、あんなおっかねぇ顔で言われちゃぁな」
春日伯爵特有の人の癪にさわる言い様にカチンときたのも事実だが、彼に言われて光也は今更ながらここが大正であることを思い知った気分だった。ここは光也が慣れ親しんできた平成ではなく、大正初期だ。まわりをみても長髪の男など、まずいない。外聞や世間体というものに神経質な、仁の祖父が怒りだすのは無理もない話だ。
「やっぱり変なのかなぁ、と」 思うわけよ、と髪を弄りながら光也は言う。
「十分似合っている」
「そうじゃなくてだな……」 まったく仁ときたら、そういう台詞をどうして臆面もなく言ってのけるのだろう。不覚にも熱くなった頬を隠そうと、光也は顔を手で覆った。 「世間様から見りゃ、この髪はまずいんじゃねぇのか」
「だから似合ってるからいい」
「……さ……さいですか……」
さらに熱くなった頬は、もう隠しようがなく。耳が赤いぞ、と言って笑う仁の足を蹴ってやった。
気がつけば、先ほど震えていたのが嘘のような仁のその様子に、光也は内心ほっとする。が、己の頬の熱が醒める気配はない。
「っとによー! 兎に角、俺は髪切っぞ! おら、鋏貸せ!」
「待て。僕が似合ってるからいいと言ったのに、それでもお前は髪を切るのか。結局、祖父の言うことを聞くのか」
「ち・げ・え・よ! いい加減、伸びすぎたような気ぃしてたんだ」
後ろでひとつでくくるにしても、伸びすぎだ。鬱陶しいくらいに。
「ほら、鋏貸せ。お前の部屋にだって鋏のひとつやふたつくらいあるだろ」
ようやっと棚から鋏をひとつ出してきた仁は、しぶしぶといった様子で光也にそれを渡す。
そんな仁の様子に、光也は苦笑いしながら言った。 「俺が自殺するとでも思ったのか」
仁は答えない。でも、その通りだった。光也の部屋に入るなり、視界に飛び込んできたのは首に鋏を押し当てようとしてた光也の後姿。心臓が止まるかと思ったのだ。
「死なねぇよ。自殺なんかしない」 風呂場で手首を切った母親の姿が、光也の脳裏に浮かんだ。何かを嘲笑うような笑みを、光也は仁に気づかれない程度にこっそりと浮かべる。
「僕は、たとえばお前が自殺しようが構わない」
「にしちゃ、さっきはえらくうろたえてたじゃねぇか」
「僕が嫌なのは、お前が僕に何の相談もなしに重要なことを決めてしまうことだ」 いつかのお見合いのときのように。
相変わらずのすんげぇ独占欲だな。光也は思う。
「で、俺に自殺の相談を持ちかけられたお前はどうすんの」
「一緒に死ぬ」
馬鹿じゃねぇの、とは言えなかった。仁が怖いくらいに本気であることを、光也は知っているのだから。
口を真一文字に結んで、光也を見つめる緑の瞳を、光也はじっと見つめ返した。
(ジぃちゃん……)
ここにはいない、祖父を呼ぶ。
(ジぃちゃん……)
仁が愛する男を、呼ぶ。
「安心しろ」 ややって光也は言った。 「お前をそんな目には合わせねぇからよ」
いつもは自信に溢れた緑の瞳が、今は不安げに揺れている。
「自殺なんかしない」 今一度、光也は言った。 「絶対に」
してたまるか。お前を助けずして、どうして死ねるというのだ。
「まぁいいや。とりあえず、俺は髪切るぞ」
えー、と不満げに口を尖らせる仁を黙殺して、光也は鏡の前に立つ。鏡のなかの少年は、微かに笑っていた。


2006/02/15