仁が居間に顔を出すと、光也が丁寧にヴァイオリンの手入れをしていた。嘗て慶光がそうしていたように。
「お前、またやってるのか……」
些か呆れたような響きのある仁の言葉にも、しかし手元のヴァイオリンに集中している光也は気のない返事を返すだけだ。仁は心のうちで、せめて顔をあげるくらいしてくれたっていいものを、と全くつれない光也に悪態をつく。
さて、どうしたものか。仁は思案する。
今、特にこれといってすることはない。光也のこの様子だと、ヴァイオリンの手入れはとうぶん終わらないだろう。ヴァイオリンを弄っているときの光也の邪魔をすると、光也はふだんの数倍増しの恐ろしい形相で怒りだすから、そうそう簡単に彼にちょっかいを出すことも出来ない。
かといって折角見つけた光也の傍を離れることは嫌だ。
となれば、仁に出来ることといったら、仁を放って作業に没頭する光也を見つめることぐらいしかなかった。
思案の末、仁が光也の邪魔をしないよう細心の注意を払いながら彼の隣に腰掛けると、仁に向けられた例のない顔がそこにあった。
(なんとまぁ、そんな顔をしてくれて……)
仁は面白くなさげに口元をへの字に曲げる。が、そんな仁のことなどすっかり意識の外に排除してしまっている光也は、至極真剣に、同時にとてつもなく愛しそうに手元のヴァイオリンだけを見つめていた。
せめてヴァイオリンにそそぐ半分の愛しさでもいいから、自分を見つめる瞳に含ませて欲しいものだ、と仁は思わずにはいられない。仁を前にした光也ときたら口を開けば、馬鹿よチョンよ変態よ、と仁を詰るしかしないのだから。
「随分と大切そうに扱うんだな」
タイミングを見計らって光也に話しかけれると、光也は仁の思惑通り顔をあげた。が、そこに仁が期待した瞳はなく、そのかわり少々柄の悪い瞳があった。
「……光也。その目つきはあんまりというものじゃないのか」
「何が」
「だから、その目つき」
「意味わかンねぇし」
その刺々しい口調もどうにかして欲しい、と仁は独りごちる。 「お前のそのヴァイオリンに対する態度と、僕に対する態度があまりにも違いすぎやしないかと言っているんだ」
「……」
お前という奴はとうとう物にまでやきもち妬くようになったのか…。―――無言で眉をひそめた光也の目は、仁にそう語っている。
「たかがヴァイオリンじゃないか。なんでそこまで愛しそうに見るんだ」
その“たかが”ヴァイオリンにすら勝てない自分は、いったいどれだけの人間だ。情けなくて涙も出やしない。
「でも、ジぃちゃ……慶光のだろう?」
だから大切に扱って当たり前。愛しくて当たり前だ。光也はそう言って、またヴァイオリンに視線を落す。
ああなるほど。慶光のヴァイオリンを撫でる光也を見ながら、仁はようやっと納得がいった。
「お前は、慶光のことが大切なんだな」 しみじみと仁が呟く。
「ばっ」 ……馬鹿じゃねぇの。光也の言葉は、途中でかき消えた。頬が赤い。図星をさされて、照れているのだ。
(祖父と孫…ね……)
いつかの光也の主張を全く信じないわけではないけれど、如何せん内容が内容なだけに俄かには信じがたい。只、仁の知らない慶光を光也は確かに知っていて、おそらくはここにはいない慶光もまた、仁の知らない光也を知っているのだろうとは思う。
微かに頬を高揚させて、珍しく微かに口元を緩めている光也は、何か思い出し笑いでもしているのか。
「………妬けるな」
何気なしに呟いた言葉は、慶光に対するものだったのか。それとも光也に対するものだったのか。或は慶光・光也の両者に対するものだったのかもしれない。
少なくとも、ヴァイオリンに妬いているわけでない。……はずだ。


060131