朝から気分が悪いのはきっとあんな夢を見たからだ。 夢の中で、鏡を覗いたら、そこには誰の顔も映ってなかった。たかが夢ごときに何を怯える必用があるのか、と人は光也を笑うかもしれない。だが光也には切実だった。その夢がまるで、いかに己の存在が希薄なものであるかを、突きつけているような気がしたからだ。
「なんて顔をしているんだ、みつ」
仁のひやっとした指先が光也の頬に触れる。
うるさいと、光也は内心思う。うるさいから放っておいてくれ、と心の中で叫ぶ。もちろん、そんなことを仁に言ったところで、彼が光也への干渉をおとなしくやめるとも思えないので(むしろそんなことを言った日には、仁は逆上して何をやらかすかもわからない)、光也は黙ってその気持ちを心のうちにとめておくのだ。
「どうした」
「なんでもねぇ」
「なんでもないわけがないだろう」 気遣わしげで、そしてどこか強引な響きのある声で、仁は言った。
「なんでもねぇって」
ここでうまい作り話のひとつでもできる器用さが自分にあればと光也は思うが、光也が仁を煙に巻けるような話術なんぞ持ち合わせているわけもなかった。だから、「なんでもない」と言い続けるしかないのだ。
「みつ」
「なんでもない」
「そんなわけがあるか。いいから話してみろ」
話したところで、お前に俺の気持ちがわかるのか。わかるわけがないだろう。そう言いたくなる意地の悪い自分を、光也は無理やりに押さえ込んだ。これは、仁を傷つける言葉だ。口が裂けたって言えない。
「光也」
光也が緩慢な動きでゆるゆると頭をあげると、気遣わしげに己を見つめる緑の瞳と目が合った。
「全部話せ」
すると突然、あ、と光也が声にならぬ声で叫んだ。何事かと仁が眉間に皺を寄せる合間に、光也は仁から眼鏡を引っ手繰る。いっきにぼやけた視界に、今度は仁が叫ぶ番だった。
「おい、みつ! 眼鏡をっ」
―――返せ、と言う前に、仁は己の両の頬に熱い熱を感じた。じーんと脳髄まで響く衝撃。頬に感じた熱の正体が痛みだったということに仁が気付いたときには、既に仁の眼前に光也の顔があった。光也が、両手で仁の顔を挟み込み、そして無理やり引き寄せたのだ。
「閉じるな!!」 頬の痛みに顔をしかめる仁に、光也は怒鳴りつける。
「み……みつ……?」
「目ぇ開けてろ!!」
ずいと尚も近づく光也の顔に、仁はらしくもなく狼狽していた。いつだって至近距離で見つめたいと思う光也(慶光)の顔だけれど、この不意打ちには流石の仁も驚きを隠せない。
光也の黒い瞳が、こわいくらいに真剣に仁を見つめている。その真剣さに圧倒されて、仁はされるがままだった。動くことも、瞬きをすることさえも許されず、仁に出来ることといったら、光也の黒い切れ長の目を見つめ返すことぐらいだった。光也の瞳に映る自分の顔が見える。妙な感覚だと仁は思う。光也の目を見ているのか、それともそのなかに映る自分の目を見ているのか、わけがわからなくなりそうだ。
そんな具合に激しくうろたえる仁をよそに、光也はというとひたすら仁の緑の瞳を見つめていた。夢のなかでは見えなかったものを求めて、瞳の奥の奥を探す。
「…………やっぱりお前の目は綺麗だよな」 光也はぽつりと呟いた。
「みつ?」
訝しげにその緑の目を細くする仁に、光也は嬉しそうに笑ってみせる。緑の瞳の中で笑う自分と、目が合った。


060115